有藤通世氏 64年夏1打席で奪われた甲子園 反骨心でつかんだ「ミスターロッテ」74年日本一

[ 2020年5月11日 06:00 ]

我が野球人生のクライマックス

初戦の第1打席で顔面に死球を受け倒れ込む有藤
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 スポニチの野球評論家が、自身の忘れ得ぬ試合やシーンを振り返る「我が野球人生のクライマックス」。第5回は有藤通世氏(73)。高知3年の1964年に出場した夏の甲子園1回戦、秋田工戦で顔面に死球を受けた。たった1打席で高校最後の夢舞台でのプレーを奪われた。チームは高知県勢初の優勝を飾ったが、悔しさだけが残った。その反骨心こそ、「ミスターロッテ」と呼ばれた野球人生の礎となった。 (構成・君島 圭介)

 その瞬間の記憶はない。ただ、2ボール2ストライクからの5球目だったことは覚えている。「気がついたらベッドの上だった」。高3で迎えた夏の甲子園1回戦、8月12日の秋田工戦。高知の4番でエースだった有藤は、初回の第1打席で顔面に死球を受け、救急搬送された。歯が3本折れ、唇を3針縫う重傷だった。

 それでも戦いたかった。意識が回復し、直訴した出場は却下された。14日の花巻商(岩手)戦に勝ち、迎えた16日の準々決勝は平安(京都)戦。衣笠祥雄を擁する優勝候補で、これが最後の試合になると思った。有藤は「ベンチ入りだけでも」と懇願したが、それさえも受け入れてもらえなかった。

 「病室で駄々をこねた。甲子園に憧れて必死にやってきて、しかも最後の夏なのに戻れないのはつらかった。体は動いたからね」

 皮肉にも大黒柱を欠いたチームは一丸となって高知勢初の全国制覇を成し遂げた。だが、病室の有藤には「悔しさ」しかなかった。甲子園終了後はチームと一緒に帰れと命じられた。「退院させるなら試合に出してほしかった」。さらに高知に戻ると優勝パレード。「嫌だ」と断った有藤も強制的にパレード車に乗せられた。

 「入院も優勝パレードも結局は大人の都合だよね。球児の、僕の甲子園を何だと思ってるんだと思ったね」

 失意の有藤にチームメートの言葉が追い打ちをかける。「おまえは全国制覇に貢献してないじゃないか」。高校生の軽口だった。だが、この言葉が有藤の野球人生を変えた。

 「本当に悔しくて。だから絶対に日本一になってやろうと決めたんだ。日本一を経験して、ようやくこいつらと同等だとね」

 近大では大学選手権準優勝が最高。68年ドラフト1位で東京オリオンズ(翌年からロッテ)に入団し、2年目に打率・306でリーグ優勝に貢献したが、日本シリーズで巨人に敗れた。

 念願を遂げたのは74年だった。2度目の日本シリーズで中日を4勝2敗で下し、ついに日本一となった。シリーズ前に手首を痛めた有藤は痛み止めの注射を打って出場し、21打数9安打、2本塁打の打率・429。打撃賞と技能賞に輝いた。

 「ようやくプロで日本一になれた。高知に帰って野球部時代の仲間と酒を飲んだよ。うまい、というよりホッとしたなあ」

 今では甲子園の死球を「その後の野球人生は、あの夏があったから」と受け入れる。高野連や学校関係者の対応には憤りを消せないが「それが反骨心となった」と振り返る。

 今、新型コロナウイルスの影響でセンバツが史上初の中止となり、夏の甲子園開催も危ぶまれている。形は違えど、夢舞台を失った苦い経験を持つ有藤には球児の心情が痛いほど伝わっている。

 「甲子園は特別。次のステージがあるとは軽々しく言えない。僕はあのとき甲子園を取り上げられて“見返してやる”と野球に打ち込んだ。夢を失う悔しさは僕には分かる。それを忘れるな。反骨心はきっと今後の人生の役に立つ」

 通算2057安打を放ち、ミスターロッテと呼ばれた有藤。偶然なのか、64年は東京五輪の開催年だった。 (敬称略) 

 ▽64年夏の甲子園の高知の戦い 1回戦の顔面死球で大黒柱の有藤を失った高知は、2回戦の花巻商戦でも主将の三野幸宏が死球で離脱する。主力2人を欠き、チーム打率は1割台だったが、2年生投手の光内数喜の好投と堅実な守備で接戦を制して初優勝を成し遂げた。閉会式後、ナインは有藤と三野が入院する病院に直行して優勝を報告した。

 ◆有藤 通世(ありとう・みちよ)1946年(昭21)12月17日生まれ、高知県高岡郡(現土佐市)出身の73歳。高知では2年夏、3年夏に甲子園出場。近大に進み、68年ドラフト1位で東京(現ロッテ)入団。69年に新人王、77年に首位打者。ベストナイン10度、ダイヤモンドグラブ賞4度。通算2063試合で打率.282、2057安打、348本塁打、1061打点。86年の現役引退と同時に監督に就任し、87~89年に指揮を執った。ロッテ一筋で「ミスターロッテ」の愛称を持つ。

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