【内田雅也の猛虎監督列伝~<2>第2代・石本秀一】黄金期、猛虎魂、ミスター「育ての親」

[ 2020年4月21日 08:00 ]

第2代監督としてタイガース黄金時代をつくった石本秀一氏=阪神球団発行『阪神タイガース 昭和のあゆみ』より=

 石本秀一はタイガースの第1期黄金時代を築いた名将である。竹中半平は名著『背番号への愛着』(あすなろ社)で監督の背番号だった30番で筆頭に挙げ<大タイガース育ての親>と記した。

 プロ野球初年度の1936(昭和11)年夏、阪神電鉄本社重役陣が初代監督・森茂雄に代え、石本起用を決めた理由は母校広島商を甲子園大会で春夏3度全国優勝に導いた実績と「真剣刃渡り」や「千本ノック」のスパルタ式訓練という厳しい姿勢にあった。

 広島の山金旅館での契約が7月14日。石本は毎日新聞広島支局の記者だったが「好きな野球に情熱を注げるのは幸せだ」と快諾だった。

 秋のシーズンに向けて合宿に入った8月10日、明石駅前の旅館で選手と初対面し、性病と予防について語るあいさつで驚かせた。合宿では朝から夕方までノックバットを手放さずに鍛えた。

 前監督・森を慕う選手からは反発があった。同郷で立教大を中退して入団した景浦将は投手では大暴投や棒球を投げ、右翼手としては打球を捕らない。石本の日記には「今日も景浦、飛球を追わず、打っても走らず。原因不明」と残る。

 秋の公式戦は24勝6敗と8割の勝率をあげたが当時は勝ち点制。同点の巨人とプレーオフの年度優勝決定戦となった。「洲崎の決戦」である。

 第1戦で石本は景浦に「ここで長いの飛ばしたら賞金出したる」とささやき、沢村栄治から3ランを引き出した。月給400円の石本は自ら10円を支払った。西本恵『日本野球をつくった男――石本秀一伝』(講談社)には<プロ野球界に“賞金制度”が生み出された>と、球界初だった。

 決戦は沢村3連投の前に1勝2敗で初代王者は巨人に譲った。

 2年目37年の甲子園キャンプ後半、2月24日から3月2日まで球場出入り口を閉鎖して「秘密練習」を行った。沢村攻略に投手をプレートの1、2歩手前から全力投球させ、打撃練習を積んだ。

 強打が身につき、夏のオープン戦(7月21日・横浜公園)で沢村から10点を奪い6回KO。球団専務・冨樫興一は全員にビールをふるまい、金一封を出し、松木謙治郎は<打倒沢村達成の記念すべき日>と記した。

 公式戦は春2位。秋は1リーグ記録の14連勝を記録するなど優勝し、石本は「実力は海内無双」と豪語した。年度優勝決定戦でも沢村を打ち込み初の日本一に輝いた。翌38年も圧勝で連覇した。

 石本の功績をさらに挙げれば、藤村富美男を本格的に打者に転向させ、戦後「ミスタータイガース」と呼ばれる土台となった。南萬満『真虎伝』(新評論)には青田昇の証言として、投手として入団した藤村が石本の代打起用に応え、右中間二塁打した逸話がある。この後、主に2番・二塁で起用し打撃が花開いた。

 松尾俊治が編集発行人を務めた戦後49年12月発行の月刊『野球世界』(スポーツ昼報社)には当時大陽監督の石本が「本塁打王藤村選手について」との寄稿で<二塁に転向してもらった><投手としての寿命は長くないと思ったし、彼の伸びる道はバッティングを生かすところにあると考えた>と書いている。

 50年誕生の広島初代監督など6球団で監督を歴任。多くの門下生を輩出した。72年、野球殿堂入りしている。

 82年11月10日、86歳で没した。東広島市の自宅で営まれた葬儀・告別式には当時の球団社長・小津正次郎ら阪神幹部が駆けつけた。=敬称略=(編集委員)

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