五輪でドーピング違反ゼロ 捨てたもんじゃない日本人の「倫理観」

[ 2016年7月29日 10:16 ]

 20年以上も前の話だ。ある関東近県の夏の高校野球選手権決勝で見事に甲子園初出場を決めたチームの監督が、選手に今伝えたいことは?と問われて、こう答えたことを鮮明に覚えている。

 「学校の半径5キロ以内でタバコは吸うな、と言いたいです」

 ベンチが何とも言えない笑いに包まれた。鷹揚(おうよう)な時代だった。

 夏の甲子園の地方大会も佳境を迎えている。近年、減少傾向にあるとはいえ、全国の参加校数は約3900校。残念なことに、部員の喫煙問題で大会出場を辞退した高校もある。佐賀大会では準決勝まで進出した学校が辞退を決めたケースまであった。確かに未成年者の喫煙は法律違反ではある。だが、たった4人(うち県大会のベンチ入りは2人)のために戦わずして夢を絶たれた若者たちの心境は察してあまりある。

 連帯責任。

 さて、ここまで書いてテーマにピンと来た読者も多いだろう。ロシアの国ぐるみのドーピング問題と、リオデジャネイロ五輪の参加問題である。

 国際オリンピック委員会(IOC)の決定については、当日の記者コラムにも記したので割愛しよう。ここで取り上げたいのは倫理観の問題だ。

 20年五輪パラリンピックの東京招致を成功させた要因の1つとして、日本が五輪でのドーピング違反者を出していない、というクリーンさが挙げられている。反ドーピングに力を注いでいるIOCからすれば、当然、重要なファクターだっただろう。この日本の反ドーピングを支えているのが、高い倫理観と言われる。スポーツ庁の鈴木大地長官の言葉を借りれば「ドーピングをしてまで勝つ、ということを良しとしない国民性」ということになる。

 実はこの高い倫理観のバックグラウンドにあるのは「他者に迷惑をかけない」という根本的な思想にあるのではないか、と私は考えている。人間は誘惑に負ける、弱い生き物だ。だが、自分の行為で他者に迷惑をかける、と思えば自己を律することもできる。近年、その日本人の特徴を揶揄(やゆ)する声もあるが、決して捨てたもんじゃない、と思う。

 クリーンなアスリートを救うという措置は必要かもしれないが、どこかで反省を促し、反ドーピングを支える倫理観を生み出す必要性もあるのではないか。アスリートを現役時だけでなく、人生の勝者にするために。ちなみに、日本国内で未成年者の喫煙が法律違反であるのと同様、ドーピングを法律違反、とする国も世界中に存在する。(首藤 昌史)

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