日本人初の快挙!太田“最後の覚悟”でつかんだ世界一

[ 2015年7月18日 05:30 ]

男子フルーレ個人で初優勝し、ガッツポーズする太田(AP)

フェンシング世界選手権

(7月16日 ロシア・モスクワ)
 日本人初の世界一に輝いた。男子フルーレ個人の決勝トーナメントが行われ、08年北京五輪個人銀メダリストの太田雄貴(29=森永製菓)がアレクサンダー・マシアラス(21=米国)との決勝を15―10で制して初優勝した。日本勢の大会制覇は全種目を通じて史上初の快挙。20年東京五輪招致にも尽力した日本の顔が、来年のリオデジャネイロ五輪へ大きな弾みをつけた。

 金メダルに自然と笑みがこぼれた。「1つ目標を達成した。言葉にできない」。そわそわしながら太田は表彰台の一番高い場所に立った。30歳で迎えるリオデジャネイロ五輪について「今はリオで一区切りだと思っている」と五輪後の現役引退を示唆した第一人者は、「人生の最後の世界選手権になるかもしれないと思って挑んだ。最後の最後でこうやってタイトルを獲れて本当にうれしい」と喜びをかみしめた。

 マシアラスとの決勝は7―2から連続して5点を許し、追いつかれた。それでも29歳のベテランは守りを怠らず、多彩な攻めで向かった。最後は相手の胸を突き、金メダルを決めた。「試合の中でも、攻防を随所に変えることができたのが非常に良かった」と自画自賛。戦略面を重視し、ついに頂点にたどりついた。

 新たな勲章が加わった。「昔から“日本初”とか“何回連続”とか好きで、常に目標にしてやってきた」と父・義昭さん(62)。太田は北京五輪は個人で銀メダル、ロンドン五輪は団体で銀メダルと2大会連続でメダルを獲得し、歴史を切り開いてきた。ついに世界一の称号を勝ち取り、日本の競技史の新たな一ページに名前を刻んだ。

 ゴールは五輪の金メダルだ。ロンドン五輪後は約1年間、実戦から遠ざかった。復帰への迷いもあったが、「やるんだったら金メダル」と腹をくくり、癖だった猫背を矯正し、股関節の使い方も変えた。13年8月には国際連盟のアスリート委員に選出されるなど競技普及の面でも積極的な活動を行ってきた。20年東京五輪招致では招致アンバサダーとして、プレゼンテーションに3度登壇して熱弁を振るうなど、アスリートとして活躍の場も広げている。

 今大会の優勝で、来年3月31日付の世界ランキングで決まるリオ五輪切符も「個人は確率が高くなった」(協会関係者)と4大会連続五輪出場へ前進。アテネ、北京五輪で2冠を達成した競泳男子平泳ぎの北島康介(32=日本コカ・コーラ)からの祝福のツイッターには「ありがとうございます!来年の夏は一緒にリオに行きましょう!」と返した。「(今回は)フェンシングをメジャーにしたい、というメダルだと思っていない。それは五輪でやるべき」。大舞台でもう一度“世界一”の称号を得て、有終の美を飾る。

 ▽フェンシングのルール フェンシングには、フルーレ、エペ、サーブルの3部門がある。太田が専門とするフルーレは、有効面が上半身の胴体のみ(背中も可)で、有効面が上半身全体のサーブルや全身のエペに比べて小さい。攻撃方法は「突き」のみで、攻撃権が存在。先に腕を伸ばして剣先を相手に向けた方に攻撃権が生じ相手がその剣を払ったり叩いたりして向けられた剣先をそらせると攻撃権が消滅。相手に攻撃権が移る。攻撃権がないと突いても得点は入らない。競技人口は日本ではフルーレが最も多いが、世界ではエペやサーブルの人気が高い。個人戦はいずれも3分3セットの15点先取制。

 ◆太田 雄貴(おおた・ゆうき)1985年(昭60)11月25日、滋賀県大津市生まれの29歳。比叡平小3年でフェンシングを始め、京都・平安高(現龍谷大平安高)で史上初の高校総体個人3連覇を達成。高2で史上最年少の17歳で全日本選手権優勝。06年アジア大会金メダル。08年北京五輪の個人で銀メダルを獲得。12年ロンドン五輪で団体銀メダルに貢献し、五輪2大会連続で表彰台に立った。世界選手権では10年に個人、団体で3位。同大卒業後の08年11月に森永製菓に入社した。1メートル71、69キロ。

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