気がつけば40年(2)初めての夏に出会った3球団競合の剛腕

[ 2020年7月23日 14:00 ]

初めて1面のメーン原稿を書いた1980年7月22日付スポニチ東京版
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 【永瀬郷太郎のGOOD LUCK!】コロナ渦で中止となった夏の甲子園の代替大会が全国47都道府県で開かれている。

 3年生にとっては最後の夏。今年はかなわないが、球児が夢の聖地を目指す地方大会は、新人記者の登竜門でもある。私にも忘れられない出会いがあった。

 スポニチ東京本社は首都圏を中心に広く東日本をカバー。夏の地方大会が始まると、野球担当以外の記者も総動員して注目選手、高校をマークする。

 一日ごとに注目度によって優先順位がつけられ、記者の配置が決まる。1980年7月21日。一番ペーペーの新人記者に与えられたのは東東京2回戦、神宮球場の日大一―高輪戦だった。

 ノーマークだった日大一のエースが1回戦の芝工大一戦で5回無安打、13奪三振の快投を演じている。2回戦は誰かつけた方がいいということで私が指名されたのだ。

 右の本格派。なるほど1回戦の成績が分かる。速球が外角に決まり、いきなり4者連続三振。1回戦から通算13者連続三振だ。3回まで7三振。4回、高橋監督に「守備の練習にならん。少し打たせろ」と言われて2安打を許したが、8―0で7回コールド勝ち。またも13三振を奪った。

 2試合12回を投げて26奪三振。電話で報告したら、当番デスクの中沢三生さんの声が弾んでいた。

 「おお、そりゃあ凄いじゃないか。ひょっとして1面にいくかもしんねえからな。しっかり取材して会社に上がってこい」

 1面?1面と言えば新聞の顔だ。4月に入社して5月に運動部へ配属されたばかりの新人が書かせてもらっていいのか。とまどいながら、可能な限りの談話を集めて当時港区の金杉橋にあった編集局に戻った。

 「とにかく行数は気にせず、書けるだけ書いてみろ」

 パソコンなんて存在しない時代。中沢デスクに言われて原稿用紙に向かった。書いては丸め、タバコに火を付けて、また書き出す。

 ふだんはもっぱら社内の雑用係。取材に出るとしたらスポニチ主催・後援の軟式野球くらいで、長い原稿は書いたことがなかった。

 悪戦苦闘していたら、背後から神の声が聞こえた。

 「永瀬、そんな書き出しじゃ読む気がせんぞ。読者がそのシーンを思い浮かべられるような臨場感のある書き出しじゃないとな」

 同郷の先輩でヤクルト担当をしていた清水理義さんだった。そう言われて肩の力がスッと抜け、書き出しが決まった。

 「1メートル81、77キロの堂々とした体から投げ下ろす最高135キロの速球はビシビシ決まった」

 今読み返すと気恥ずかしい限りだが、数字で入っていて、ある程度イメージできる。神の声のおかげだ。書き出しが決まると、あとは夢中でボールペンを走らせた。

 新聞は読者層の高齢化に合わせて年々活字が大きくなって現在は1行10字になっているが、当時は1行15字。灰皿をいっぱいにして60行ほどの原稿が書き上がった。

 恐る恐るデスク席へ持っていくと中沢さんはところどころ赤ペンを入れながら、原型をとどめたまま整理部へ出稿してくれた。翌日は電車の中でスポニチを持っている人が気になった。

 3日後の3回戦。また日大一が割り当てられた。2回戦同様神宮球場。今度は筑波大付を相手に5回コールド勝ち。エースは15打者から12三振を奪った。一人の走者も許さない完全試合。再び1面を飾った。

 4回戦の相手は第1シードの二松学舎。さすがにもう新人には任せられない。ベテラン記者のお出ましとなった。試合は延長戦に突入する熱戦となったが、日大一は12回、2―3で力尽きた。

 駆け出しの記者に2度も1面原稿を書かせてくれた右腕は竹田光訓(みつくに)。明大に進んで東京六大学のエースとなり、3、4年生時は日米大学野球では大会史上初の2年連続MVPに輝いた。1984年ドラフトで大洋(現DeNA)、巨人、中日の3球団から1位指名を受けた剛腕である。

 3回戦の試合後に取材したのを最後に会うことのなかった彼に再会したのは12年後の1992年2月、大洋の沖縄・宜野湾キャンプだった。

 竹田は3球団競合の末に当たりくじを引いた大洋に入団。1年目の1985年に右肩を壊し、わずか1勝に終わった。89年から2年間、韓国プロ野球の三星でプレーしたが、ここでも1勝止まり。91年は大洋へ戻って現役を引退し、この年から打撃投手兼広報として再出発していた。

 練習終了後、グラウンドでトンボをかけ終わった彼を待って話しかけた。

 「こんにちわ。スポニチの永瀬です。覚えてる?」

 彼の目が緩むのが分かった。

 「覚えてますよ。郷太郎さんでしょ。あの新聞、まだ実家に取ってありますよ」

 那覇市内にある大洋の宿舎、不二ホテルに移動して喫茶室でコーヒーを注文すると、彼は唐突に話し始めた。

 「実は今日の僕があるのは永瀬さんのおかげなんですよ」

 意味が分からない。怪訝な顔をしていたら説明してくれた。

 「明治(大学)の推薦は甲子園に行けば無条件。地方大会ならベスト8が最低条件なんですよ。僕は東東京の16で負けたので本当はダメだったんですけど、書いてもらったスポニチの1面を2つ提出して認めてもらったんです。だから…。明治に入ってなかったら今の自分はありませんから」

 なるほど。そうだったんだ。それは分かったけど、決して私のおかげなんかじゃない。異例の1面2連発。プロ野球の試合がある日だったらありえなかった。

 2回戦があった7月21日は当時は毎年3試合やっていたオールスターの第2戦と第3戦の間の移動日。3回戦の24日はオールスター開けの後半戦が始まる前日。いずれも1日でもずれていたら1面はなかった。

 まさにプロ野球の間隙を突いた、これしかないというピンポイントの日程。つまり彼自身が持っていたのだ。

 「名球会まであと199勝のところで力尽きました」

 そう言って笑う彼は頭部に打球を受けるアクシデントで打撃投手をやめた後、球団職員としてチームを支え続けている。

 広報、寮長、スコアラー、査定担当、ファームディレクターなどを歴任。現在は編成部プロスカウトとしてイースタン・リーグで他球団の戦力に目を光らせている。

=敬称略=(特別編集委員)

 ◆永瀬 郷太郎(ながせ・ごうたろう)1955年9月生まれの64歳。岡山市出身。80年スポーツニッポン新聞東京本社入社。82年から野球担当記者を続けている。還暦イヤーから学生時代の仲間とバンドをやっているが、今年はコロナ禍で活動していない。

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