【タテジマへの道】糸原健斗編<下>“死ぬ気で打て”恩師の教えを胸に

[ 2020年4月18日 15:00 ]

大東中学軟式野球部2年時の糸原。恩師・野々村監督と運命の出会いがあった

 スポニチ阪神担当は長年、その秋にドラフト指名されたルーキーたちの生い立ちを振り返る新人連載を執筆してきた。今、甲子園で躍動する若虎たちは、どのような道を歩んでタテジマに袖を通したのか。新型コロナウイルス感染拡大の影響で自宅で過ごす時間が増えたファンへ向けて、過去に掲載した数々の連載を「タテジマへの道」と題して復刻配信。第3回は16年ドラフトで5位指名された糸原健斗編を2日連続で配信する。

 この打席で凡退したら死ぬんだという思いで打席に立て―。

 健斗は大学、社会人になっても打席に立てば、この言葉を頭に思い浮かべた。開星の監督だった野々村直道さん(64)の教えだ。決勝戦であれ、練習試合であれ、常に言われてきた。

 「『死ぬ気で打て。死ぬ気で勝て』と。気持ちの部分の指導というのは凄く心に残っています」

 恩師との出会いは大東中学の軟式野球部に所属していた2年生の時だった。既に俊足巧打の逸材として島根県内の関係者の間では知られた存在で、視察に訪れた野々村さんも一目でほれた。「抜群の動きをしていた。1番打者で打撃もよくて足も速い。この子は1年生からレギュラーになれると思いました」。入学前年まで2年連続で夏の甲子園出場へ開星を導いていた名将から誘われ、進学が決まった。

 入学当初は硬式に不慣れな面などもあって本来の思い切りのよさが出なかった。「ガックリしました。違う子なんじゃないかと思うぐらい。動きが鈍かった。『こんな子だったのか』と」。少し拍子抜けしながらも野々村さんは夏の甲子園大会へ1年生部員の中から健斗だけを連れて行き、「今回はベンチに入れないけど、次来るとき、お前は中心になっている。球場の雰囲気を見て、必ず帰ってくるんだという気持ちを持て」と伝えた。

 背番号はなく、打撃投手や道具係を務めながら聖地を目に焼き付けた。新チームになった秋から本領を発揮し始め、三塁の定位置を獲得。中国大会では9打数連続安打を記録した。野々村さんが「戦術的なサインを出したことはない」というほどの打者になった。

 「ああ言ってくれたことは、今でもすごく覚えています。本当にありがたかったです」

 忘れられない試合もあった。2010年の選抜大会。1回戦で向陽(和歌山)に1―2で惜敗し、1番・三塁を務めた健斗も3打数1安打の不完全燃焼だった。敗戦の弁で野々村さんが「21世紀枠に負けたことは末代までの恥。監督の力が足りないということ。腹切りしたい」と言ったことが波紋を呼んだ。

 直後に監督を一時辞任。復帰は翌春だったため、恩師と一緒に戦った最後の一戦にもなった。日ごろから“死ぬ気で”と説かれてきた教え子として真意は知っていたし、大切な気構えとして以降も胸に宿した。だから、明大進学後もプロフィルの「尊敬する人」の欄には「高校時代の監督」と書いた。

 ドラフト後に電話で報告を受けた野々村さんは「『おめでとう。やったな』と言ったんです。普通、『ありがとうございます』でしょ? でもあいつ、『やりましたー!』って。それだけうれしかったんだろうね」と明かした。いまでも続く絆を感じさせる会話だった。「『小さくてもプロの世界でできるんだ』ということを彼には証明してもらいたい」。本当の恩返しはこれから始まる。
(2016年11月11日付掲載、明日から高橋遥人編)


 ◆糸原 健斗(いとはら・けんと)1992年(平4)11月11日生まれ、島根県出身。小2から野球を始める。開星では1年秋からレギュラーで2年春、3年春夏の3度甲子園出場。明大では3年春に三塁手の定位置を獲得し、同年春、秋に2季連続のベストナインを受賞。社会人のJX―ENEOSでは1年目から主に二塁手として活躍した。1メートル75、80キロ。右投げ左打ち。

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