【内田雅也の追球】「アンパン」のコーチ――「悲運のジャンパー」が描いた佐伯達夫と阪神指導者

[ 2020年3月22日 08:00 ]

練習試合   阪神5―6ヤクルト ( 2020年3月21日    神宮 )

<ヤ・神 練習試合>7回2死、満塁弾の植田(左)を笑顔で迎える井上打撃コーチ(撮影・椎名 航)
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 日本高校野球連盟(高野連)会長を務め、「高校野球の父」と呼ばれた佐伯達夫の半生を描いた連載が1962(昭和37)年3~4月、スポニチ本紙に掲載されている。

 1892(明治25)年生まれの佐伯は当時70歳だった。タイトルは『長いひとすじの道』。戦前から「教育の一環」として高校野球(当時中等野球)を育ててきた道のりである。

 書き手は山内リエ。当時40歳。毎日新聞大阪本社運動部の記者だ。

 「悲運のジャンパー」だった。日米開戦の5年前、15歳、広島・呉の女学生が走り高跳びの日本新記録を更新し、1940(昭和15)年東京五輪期待の星と騒がれた。以後も走り高跳び、走り幅跳び、三段跳びの日本記録を次々と樹立していった。

 だが、40年東京五輪は日中戦争の影響で中止。44年ロンドン五輪も戦火激しく中止。戦後48年ロンドン五輪は日本は敗戦国として参加を認められなかった。同大会の女子走り幅跳びの優勝記録は山内のベストを大きく下回っていた。五輪3大会を棒に振ったわけである。

 さて、その山内が書いた連載には「ノックとアンパン」と題し、厳しくも優しい佐伯の人柄をしのばせる逸話がある。早大在学中、卒業後と母校・市岡中(大阪=現・市岡高)コーチを買って出て<指導ぶりは秋霜のごとく厳しかった>。

 指導を受けた土肥梅之助(後に大阪市立住吉市民病院院長)の談話がある。毎年10月から1月末まで早朝練習があった。部員の誰よりも早く、グラウンドで待っていた。

 「それが、厳しいばかりではありませんでした。練習が終わると“ほら、これを食べて授業に出ろ”と新聞紙がどかっと広げられる。大きなアンパンが食いきれんほど入っていました」

 温かみ、人間味のある指導は、早大先輩で初代監督(専任コーチ)の飛田穂洲が言う「野球のコーチは寺子屋の師匠」に通じている。

 そんな伝統は今も日本の野球界にある。阪神は21日の練習試合・ヤクルト戦(神宮)で2失策があった。ファーストミットの出し方の問題と、難しい三遊間寄りのゴロをさばいての一塁ワンバウンド送球。ともに事情があったのだろう。内野守備走塁コーチ・久慈照嘉は静かに見守っていた。

 打撃コーチ・井上一樹は前日20日に「話をする」と予告していたように、試合前、ジャスティン・ボーアに話しかけていた。「聞きたいことがあれば、いつでも助言するよ」と懐を開いた。若い植田海の満塁弾や、お膳立てをした選手の打撃を喜んだ。

 山内が伝えたかった佐伯のアンパンの心だ。新型コロナウイルス感染拡大の影響で、今夏の東京五輪開催が案じられる。泉下の山内はいま、何を思うだろう。

 佐伯は戦後、GHQ通達で消滅危機にあった選抜大会を守ったことで知られる。今回、史上初めての大会中止をどう見ているだろう。

 1980年に没して40年。22日が命日である。=敬称略=(編集委員)

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