【ノムラの遺産5】勝利への執念が生んだ「弱者の兵法」スペシャル継投

[ 2020年2月16日 08:30 ]

野村監督(左)は宮本氏の先発時に「スペシャル継投」を編み出した
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 それは何の前触れもなく、いきなり試合中に言われた。「一塁かライト、どっちなら守れるんや?」。先発で7回まで投げていた宮本賢治氏(現ヤクルト2軍ディレクター)は驚いて「ライトなら守れます」と答えた。強い打球が来る一塁は自信がなかったという。

 野村監督就任1年目の90年6月10日の大洋(現DeNA)戦。左の好打者・高木豊に打順が回る8回、右横手投げの宮本氏は右翼を守った。代わった左腕の矢野が1イニングを無失点に抑え、宮本氏は再び登板した9回をきっちり締めた。「打球は飛んでこなかったけど“よしっ、次の回”と切り替えられた」。勝利投手とセーブの両方の権利があったが、記録は勝利だけだった。

 「勝つための最善の策だったと思います。あの手この手で、何とかして勝ちたいという思いが野村さんにはありましたから」。宮本氏はそう振り返る。この奇策を野村氏は「弱者の兵法」と表現したが、ID野球に裏打ちされた策だった。当時の宮本氏はサイドスローながらシンカーなど落ちる球がなく、野村氏は「左打者に苦しむ」とみていた。そのためこの年は中軸の外国人がマイヤー、パチョレックと右打ちだった大洋中心に宮本氏を起用。「他の球団にも投げさせてください」という申し出も「無理や」と却下していた。

 そんな中、巡ってきた大洋戦で左打者へ回る終盤のスペシャル継投。宮本氏はこの年、キャリア唯一となる2桁勝利(11勝)を挙げた。その3年後、93年8月29日の横浜戦でも宮本氏が5回のピンチで右翼を守り、左の山本がワンポイントで高木豊を抑え、再登板して8回まで投げて勝っている。当時のことを宮本氏は「野村さんの下で勉強させてもらい、投げさせてもらうだけで幸せだった」と話す。選手の特性を見極め、適材適所を考えた起用方法だった。

 野村氏は90年10月1日の広島戦で先発の右腕・郭建成を打者1人で交代させ、2番手の左腕・加藤を初回1死からロングリリーフさせて勝利している。これは偵察要員対策で、阪神の監督時代には左腕・遠山と右腕・葛西を交互に投手、一塁を回す奇策で「野村スペシャル」と呼ばれた。勝利のためにあらゆる手段を尽くす。そんな「野村野球」の神髄は今も球界に息づいている。(特別取材班)

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