内田雅也が行く 猛虎の地(5) 吉川旅館「真夏の監督交代劇を見届けた名門旅館」

[ 2019年12月5日 08:00 ]

昭和20年代の吉川旅館。昭和45(1970)年の建て替えできっかわ観光ホテルとなるまでは木造3階建てだった(高橋伸光氏提供)
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 【(5)広島「吉川旅館」】

 甲子園球場2階にあった阪神球団事務所で極秘の会議が行われた。真夏の昼下がりだ。1966(昭和41)年8月12日、球場では第48回全国高校野球選手権大会が開幕し地元勢の郡山、平安(現龍谷大平安)などが勝ち名乗りをあげていた。

 集まったのは4人。オーナー・野田誠三、球団代表・戸沢一隆、総監督・藤本定義、チーフスカウト・佐川直行である。議題はチーム再建策、端的に言えば、監督・杉下茂の処遇だった。

 11日の巨人戦(後楽園)で50敗に到達し、借金16の4位。特にオールスター明けは2勝14敗と沈んでいた。チームは移動日で、東京から広島へ、新幹線と特急を乗り継いで向かっていた。

 野田は「残る46試合を阪神タイガースとして恥ずかしくない試合ができる方法を考えよ」と命じていた。13日付スポニチ本紙(大阪本社発行版)1面に<藤本総監督 再出馬か>との見出しで記事がある。実際、4者会談で杉下更迭と藤本復帰が決まっていた。

 藤本は62、64年とリーグ優勝に導いた功労者だった。65年限りで体力面を理由に総監督に退き、新監督にヘッド兼投手コーチだった杉下を指名していた。1年も経たないうちに更迭である。

 会議を終えた12日夜、戸沢、藤本、佐川の3人はマスコミに気づかれぬよう、列車ではなく、阪神タクシーで遠征先・広島に向かった。広島の定宿、吉川(きっかわ)旅館に着いたのは深夜から未明だったろうか。

 13日朝、杉下に「休養」を伝えた。当時マネジャーだった中村和富(84)は朝早く、杉下から「おい、貴重品」と呼ばれたのを覚えている。財布など貴重品を預かっていた。「どうしたんですか?」と問うと「クビになった。東京に帰るんだ」と聞いて驚いた。

 <杉下は黙って荷物をまとめて帰ろうとした>と当時阪神担当記者だった水本義政が著書『村山実「影の反乱」』(ベースボール・マガジン社)に書いている。<その気配を知って村山は投手陣を集めて玄関まで全員に見送りをさせた>。

 「スギさん! 申し訳ありませんでした……」

 「ムラ、世話になったな。体を大事にしろよ」

 当時のスポニチ本紙によると、杉下は広島駅発午後0時15分の特急「はと」に乗り、大阪駅着が4時32分。タクシーで大阪国際空港(伊丹)に向かった。車中に流れていた夏の高校野球ラジオ中継に杉下が「甲子園に出てくる投手はやはりいいものを持っている」と話し、少し空気が和んだ。伊丹を5時30分発の日本航空機で羽田へ、東京の自宅へ直行した。

 昼間、吉川旅館での監督復帰発表を受けた藤本はさっそくその日、広島市民球場でのナイター広島戦で指揮を執った。前夜、タクシーに乗り込む際、背番号61のユニホームを風呂敷に包んで持っていた。試合に敗れはしたが、意気盛んだった。

 本紙・田中二郎は<10カ月の空白を全く感じさせぬ“古だぬき”健在ぶりを見せた>と書いた。権謀術数の策士、藤本は出身地から「伊予の古だぬき」と呼ばれていた。

 藤本は言った。「大阪から来る途中、久しぶりに神経が高ぶったよ。まあ見ていてくれ。いいものを見せてやるから」

 真夏、異例の監督交代を本紙に<できていた交代劇 老かいな演出? まんまと計られた杉下>と解説記事がある。当時の阪神は新旧交代の過渡期で不成績が目に見えていた。藤本は健康面を理由にして一度退き、どん底で返り咲くシナリオだったとしている。

 杉下は確かに苦しんでいた。オーナーの野田から「監督も若返ったのだから、チームも若返れ」と命を受けていた。自伝『フォークボール一代』(ベースボール・マガジン社)にこうある。<ベテランを使って負けると、すぐオーナーのお呼びである。推参すると「なぜベテランを使った」とお叱りを受ける。側で総監督の藤本さんはにやにやしている。これには心底参った>。

 球団がオーナーや親会社に振り回される「お家騒動」の図式は昔からだ。この5年前の61年もシーズン中に金田正泰から藤本に監督が交代。球団創設初年度の36年、初代監督・森茂雄も公式戦わずか15試合で解任している。シーズン途中の監督交代が8度もある。

 更迭前の7月末、戸沢の依頼を受け、大阪学院高の江夏豊を日生球場で視察し素質を評価した。ジーン・バッキーや古沢憲司を指導して本物に仕上げた。遺産を残した杉下は阪神監督として広島の吉川旅館が最後の地となった。=敬称略=(編集委員)

 ≪時代経ても変わらない夢の場所≫

 吉川旅館で監督交代があった1966年夏、経営者・沖田一雄氏の長女・高橋澄江さん(72)は「楽しい思い出しか残ってなくて」と8月13日の出来事は覚えていなかった。当時19歳で東京の大学生だった。夏休みで帰省していたろうか。

 自身が中学3年生だった61年から阪神が宿泊するようになった。自宅も旅館内にあり、住み込み女中も大勢いた。阪神来訪時は貸し切りで選手たちはパンツ一丁で歩き回った。コルゲンコーワのカエルに似ていると「ケロ」と呼ばれ、かわいがられた。「繁華街の白とか黒とかいう名のクラブにも一緒に行った」

 思い出深いのは村山実氏だ。父に連れられ関西に旅行し、芦屋で村山氏が経営する「マンション11」に出向いた。紹介された高橋弌(はじめ)さんと交際が始まり、後に結婚した。70年2月6日の結婚式では媒酌人を務めてもらい、新婚当初は「11」で暮らした。

 今は澄江さんの次男・伸光さん(46)が社長を務める。かつては多くのファンが旅館前に詰めかけた。「プロ野球選手に出会える夢の場所だった。時代は変わったが、夢を提供できる場所でありたいと思います」

 吉川旅館は戦国武将・毛利元就の次男・吉川元春の子孫が1872(明治5)年に創業した老舗旅館。65年にきっかわ観光ホテルとなり、94年から現在のホテルフレックスとして営業している。

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