【内田雅也の追球特別編】日系2世の若林忠志が日本人扱いに 繰り上げでバッキーが球団外国人最多勝利

[ 2019年6月18日 08:00 ]

戦後、阪神に復帰した若林(写真は1947年当時)=若林忠晴氏所蔵=
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 ランディ・メッセンジャー投手(37)がプロ通算100勝に「あと2勝」と迫る阪神は従来「外国人」として扱ってきた日系2世の若林忠志(1908―65年)を日本人に改めることを決めた。阪神外国人の最多勝はジーン・バッキーの100勝となり、メッセンジャーには球団外国人最多勝記録更新の可能性が出てきた。球団では記録達成に向けての準備に入った。戦前、日系人選手の複雑な思いとともに、経緯を追った。

  
 阪神が報道関係者向けに配布しているメディアガイドには歴代外国人選手の成績一覧が掲載されている。若林忠志、亀田敏夫、田中義雄、堀尾文人……らハワイ出身の日系人選手8人も記載されていた。

 球団が気になったのは若林だった。1936(昭和11)年、球団創設メンバーの若林は戦後49年限りで毎日(現ロッテ)に移籍するまで阪神で通算233勝(ほかに毎日で4勝)をあげている。阪神の外国人投手最多勝記録だった。

 球団内部では今春、「若林投手は本当に外国人なのか?」と、その扱いに疑問が沸いた。

 メッセンジャーが昨年まで阪神で通算95勝をあげ、バッキー以来となる100勝に迫っていたからだ。メッセンジャーは「100勝は大きな目標」と、自身のモチベーションとしていた。

 メッセンジャーと過去の外国人投手の成績に話がおよび、233勝の若林が阪神の外国人最多勝との記述に出くわした。球団では「メッセンジャーにとって、100勝が記録ならば、よりいっそうのモチベーションになる。若林投手は外国人の扱いでいいのだろうか」と再調査に動いた。

 4月下旬、若林の遺品などを管理する次男・忠晴さん(80)に連絡を取り、遺族としての意向を確認した。

 「父は日本人です」と明確な返答があった。「1941(昭和16)年に日本国籍を取得しています。メッセンジャー投手の活躍も存じています。外国人に限らず、父の記録を破る投手が出てきてほしいと願っています」

 この意向を受け、球団では記録上、若林を日本人投手として扱い、外国人投手の最多勝をバッキーの100勝とするように内部修正を行った。

 球団本部ではメディアガイドの外国人選手成績欄には日系人選手に注釈を付けるなどの措置を検討している。営業本部ではメッセンジャー100勝に向け、タイ記録、新記録双方の関連商品の製作に入っている。

 メッセンジャーは今季3勝をあげ、目下通算98勝。他球団を含めた外国人投手としては歴代6位で、米国人投手としてはバッキーとジョー・スタンカ(南海)の100勝に次ぐ。いずれも記録達成に向けたカウントダウンに入っている。

 球団関係者は「これでメッセンジャーもこれまで以上にがんばれると思います。これも一つの現場サポートだと考えています」と話した。

 では、なぜ、若林は外国人選手の扱いだったのか。戦前の日系人選手の事情を振り返りたい。

 若林の父・幸助は広島県芦品郡戸手村(現福山市)の農民でハワイ・オアフ島に移住した。父母ともに日本人。忠志は5男4女の三男だった。国籍は当初、日本・米国の二重だったが、ハワイ・マッキンリー高在学中で20歳となる1928(昭和3)年、日本国籍をいったん離脱し、米国籍になっていた。

 そのまま横浜・本牧中(現横浜高)、法政大、社会人・日本コロムビア(川崎市)を経て、36年1月、創設されたばかりの阪神に入団した。

 当時は外国人規定などない。戦前戦中のプロ野球に在籍した日系人(1世、2世、3世)選手は19人にのぼる、と永田陽一『ベースボールの社会史 ジミー堀尾と日米野球』(東方出版)にある。日本球界と米国西海岸、ハワイの日系人球界との交流は盛んで<日本のプロ球団は日系二世選手をアメリカ人とみなしていたのではなく、海外にいる日本人を連れてくるぐらいの意識にほかならなかった>としている。

 一方、いわゆる「アメリカ人選手」は白人のノース(名古屋)、ハリス(名古屋―イーグルス)、黒人のボンナ(大東京)の3人だけだった。

 日系人が国籍の決断を迫られたのは1941(昭和16)年だ。前年に日本がドイツ、イタリアとの軍事同盟を結んだことで日米関係が悪化。米国は新国籍法を定め、日本で兵役に服したり、公務員になったり、選挙権を行使した者は米国市民権を失うとあった。在日米国人に強制帰還を命じたわけだ。

 米国に帰るか、日本に残るか。当時2歳半の忠晴は自宅に2世仲間が集まり、話し合っていた光景を覚えている。

 堀尾文人(阪神)ら4人は6月14日、横浜港からハワイに帰った。後の連盟会長・鈴木龍二は『鈴木龍二回顧録』(ベースボール・マガジン社)に<「アメリカと戦争するなどありえない。ハワイに帰るのはやめてとどまれ」とは言えなかった>と記した。情勢は風雲急を告げていた。

 大和魂を大切にしてきた若林は「みんな、日本人となろう」と言った。7月29日、米国籍離脱、日本国籍回復の申請し、8月8日に受理された。

 同年12月8日、日米開戦となり、故郷のハワイ・真珠湾が燃えた。同じく日系人の田中義雄(後に阪神監督)が動揺していると「オレたちは黙って野球をしていればいいんだ」と諭した。戦中も畑を耕し、軍需工場で働き、軍帽をかぶり、プレーを続けた。若林は日本人として生きたのだった。=敬称略=
(編集委員)

○…若林忠志が日本国籍を回復したのは1941年8月8日だった。それまで米国籍で193試合に投げ91勝(46敗)をあげていた。日本国籍となってからは阪神で308試合142勝90敗、毎日で27試合4勝8敗となる。もし、阪神での成績を国籍に応じて分けた場合、若林は外国人で91勝ということになる。

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