6月28日は「完全試合記念日」初の偉業はカニのおかげ!?

[ 2016年6月28日 08:08 ]

プロ野球史上初の完全試合達成、通算勝率1位など輝かしい記録を持つ藤本英雄

 1950年6月28日、青森球場で行われた巨人対西日本で、日本プロ野球史上初となる「完全試合」が達成された。この金字塔を打ち立てたのは、巨人の藤本英雄。日本で初めてスライダーを投げたとされる人物だ。

 この完全試合達成には、藤本の実力に加えて、さまざまな巡り合わせも作用した。6月28日にちなみ、「完全試合はじめて物語」を掘り下げてみよう。

◎登板予定はなかったのに……

 完全試合が達成される前日まで、北海道シリーズを戦っていた巨人。28日の試合のため、夜の青函連絡船で津軽海峡を渡り、一路、青森へと向かった。

 この船旅の間、藤本は徹夜マージャンで時間をつぶしていたという。なぜなら、28日の登板予定はなかったからだ。ところが、当初先発予定だった投手が北海道でカニを食べ過ぎて下痢になってしまい、西日本パイレーツ戦の登板が不可能に。巨人の水原茂監督は急遽、藤本に代役を命じた。

 この指令に藤本が慌てたのは言うまでもない。体が重く、頭も冴えない状況でプレーボール。コントロールは定まらず、先頭打者にいきなりボール3つ続けてしまう。史上初の偉業は、カウント3-0の窮地から始まったわけだ。

◎最後の相手は「代打、俺」

 そんな不安な立ち上がりも、そこから3球続けてストライクが入り、先頭打者を空振り三振。以降も体調が悪いなりにのらりくらりのピッチング。ボール球に手を出し、大振りが目立った西日本打線の拙攻にも助けられた。普段はコントロールがいい藤本にしては、珍しくボールが荒れたことも功を奏したのかもしれない。

 最終回、最後の打者として登場したのは、西日本の小島利男監督。「代打、俺」で出てきた相手を2ストライクと追いこむと、藤本が最後に選んだ球は“伝家の宝刀”スライダー。小島のバットが空を切り、空振り三振。投球数92、奪三振7、内野ゴロ11、内野飛球6、外野飛球3。4対0で巨人が勝利し、史上初の完全試合は完遂されたのだ。

 もっとも、この史上初の偉業達成も、目撃したマスコミは新聞記者が3名だけという。そしてカメラマンはゼロ。快挙達成の瞬間の写真も映像も、一切残っていない。

◎歴代1位続々&本邦初のスライダー投手

 史上初の“完全男”藤本英雄についても、いま一度振り返っておこう。藤本の偉業は、この完全試合以外にも数多い。

 まずは、冒頭でも記したように、日本で初めてスライダーをマスターしたこと。肩を痛めていた1949年、メジャーリーグ通算266勝の“火の玉投手”こと、ボブ・フェラーの著書『ハウ・ツー・ピッチング』を読み、復活の切り札として習得したという。このスライダーがなければ、完全試合達成は難しかったはずだ。

 また、戦前の1943年に記録した「シーズン防御率0.73」は史上1位の記録。また、「通算防御率1.90」も、2000投球回以上の投手のなかでは歴代1位の大記録だ。

 最終成績は200勝87敗。「通算勝率.697」も2000投球回以上の投手のなかでは歴代1位。200勝以上した投手で、100敗以上していないのは、藤本ただひとりだ。

 むしろ、史上初の完全試合はこれほど偉大な投手から生まれた、という点が誇らしい。

 なお、歴代の完全試合達成投手はたったの15人。最後に達成したのは1994年5月18日の広島戦での槙原寛己(巨人)。以降、「ミスターパーフェクト」は生まれていない。ちなみに、巨人で完全試合を達成したのは藤本と槙原の二人だけ。ともに背番号17、というのも奇妙な縁といえる。

 そもそも、登板予定投手の「カニ食べ過ぎ事件」がなければ、藤本の登板自体なかったわけで、野球における縁や巡り合わせの大きさを感じずにはいられないエピソードだ。

 2012年に杉内俊哉(巨人)が、あと1球で楽天を相手に完全試合! というところまでいったものの、中島俊哉に四球を与えてしまう(次打者の聖澤諒を抑え、ノーヒットノーランは達成)。もし、杉内の背番号が「18」ではなく、1つ小さい「17」だったら完全試合は成し遂げられたかも? というのは無粋な話だろう。

 もう20年以上出ていない偉大な記録「完全試合」。そろそろ、現役選手の誰かに実現してもらいたいところだ。次に目撃できるのは果たして、いつになるのだろうか。(『週刊野球太郎』編集部)

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