【山本譲二 我が道17】「兄弟」吉幾三と出会ったきっかけ 紹介してくれた人物は元プロ野球選手

[ 2026年4月18日 07:00 ]

吉幾三と45周年アルバムのレコーディング(本人提供)
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 互いに「兄弟」と呼び合う吉幾三は3学年下ですが、心から親友と呼べる存在です。現役引退した直後の巨人・中畑清さんに彼を紹介されたのが、出会ったきっかけでした。「雪國」や「酒よ」などのヒット曲を出して、すっかり人気歌手になっていました。

 中国残留孤児の子が自分のマネジャーだった時期でした。1992年9月には日中国交正常化20周年「北京ジャパンウイーク」にゲスト出演することが決まっていました。そんな時、シンガー・ソングライターである吉に「社会問題にもなっているし、残留孤児をテーマに歌を作ってくれないか?」と依頼したのです。吉は「ちょっと待ってて」と言うと、本当にすぐに「できたよ」と持って来ました。「お前って天才なんじゃない?」と驚いたスピード感でした。それが92年に出した「揚子江」という作品です。アレンジも既に編曲家の京建輔さんに依頼してありました。その後中国に行った時に車窓を眺めていると、まさにその歌のイメージ通りの景色が広がっていました。

 以後ずっと、一方的に作品をお願いする立場の関係が続いています。酒を飲んでバカなことを言ってふざけているイメージもありますが、実像は常に真面目に音楽作りのことだけを考えている男です。暇さえあればスタジオにこもって作品作り。そして旅に出ます。「オレは作詞、作曲しないよ。旅に出てるんだ」と言います。世界中のいろんな景色を見て、それを歌にしているのだと思います。だから彼の作品にはウソがありません。

 人生の節目、節目で、吉に頼ってきました。2019年に大腸がんの手術をした時、元気をなくして、ほとんど外出もしなくなっていた自分に「そんなんじゃ、誰もお前に付いていかないよ。そろそろ腰を上げなよ」と作ってくれたのが「人は旅人」という作品でした。本当に、当時彼が自分に投げかけてくれた言葉そのままが歌になっています。

 デビュー50周年を迎える際も「50周年?知ってたよ。記念曲はどんなのがいい?でかい歌がいい?振り返った歌?」と聞かれました。「オレもお前も女房がいなかったら、ここにいない。お前の奥さんへの感謝の気持ちをそのまま歌にしてくれ」と依頼したのが、「妻よ…ありがとう」(24年7月発売)です。当時「山本譲二メタル化計画」という企画が進行中でした。それに合わせて「言論の自由」という、ヘヴィメタル風の曲まで作ってくれ、これをB面に収容しました。

 私生活でも大変面倒見の良い男で、がんの手術を受ける時も病院の手配から対応まで全て手際よくやってくれました。「兄弟、困った時はお互いさまだよ。オレにできることは何でもするから遠慮なく、何でも言ってくれ」と言ってくれました。本当に優しくて、人間的にも素晴らしいヤツです。「ところで兄弟、入院代は?」と聞くと「バカヤロー、それはそれだろう」と怒られました。

 ◇山本 譲二(やまもと・じょうじ)本名同じ。1950年(昭25)2月1日生まれ、山口県下関市出身の76歳。早鞆高3年の67年、夏の甲子園出場。74年に「伊達春樹」として「夜霧のあなた」で歌手デビュー。北島三郎に師事し、78年「山本譲二」として再デビュー。80年発売の「みちのくひとり旅」が81年にかけてロングヒット、ミリオンセラーに。NHK「紅白歌合戦」に計14回出場。

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