【山本譲二 我が道4】小学校卒業式の謝恩会 拡声器をマイク代わりに「北帰行」を熱唱

[ 2026年4月4日 07:00 ]

中学1年、遠足の時(本人提供)
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 体が小さかったので、小学生の頃はクラスの悪ガキにいじめられたものです。後に相撲部屋からスカウトが来たほど体がでかい、いじめっ子がいました。そいつに石をぶつけられたり、よくやられました。いじめられて帰っても、絶対にそんなそぶりは見せられません。そんなことが父親にバレたら、そっちの方が大ごとになって恐ろしかったからです。

 早鞆高校の入学式前日、父親と父の弟の真の2人が「譲二、明日朝礼があるやろが。その時、一番ケンカが強そうなヤツを呼び出せや」と言うのです。「どうして?」「そいつとケンカするんじゃ。負けても2番やろが」。本気でそういう考え方をする兄弟でした。

 中学校に進み、2年生になると体も大きくなり、不良に呼び出されても「おう、やってやるぞ」というタイプに成長していきました。中学では父の意向で野球部に強制的に入部しました。「ケツ割って(逃げて)帰って来たら承知せんど」と父に脅されました。幸い、たいして強くない学校だったので、練習はそれほど厳しくありません。自分はセカンドを守っていました。その頃、父はタクシーの運転手になっていました。午後から夕方にかけて最も暇な時間帯です。父はグラウンド脇に車を止めて、しょっちゅう練習を見に来ていました。仲間に「譲二、また(オヤジが)来とるぞ」と言われるのが本当に嫌でしたね。

 勉強の方は中学の数学で関数が出て来るまでは、成績は良かったです。小学校の時にオール5だったこともあります。得意科目はやっぱり体育でしょう。頭、使わんし。足も速かったです。ただ、ぶっちぎりに速いわけではなく、リレーの選手には選ばれなかったレベル。宙返りをできるのが当時の男子の自慢でした。前転は小学生の時にできましたが、バック転はできないまま卒業、中学に入ってからできるようになりました。

 小学校の卒業式の謝恩会で、小林旭さんやボニージャックスさんが歌ってヒットしていた「北帰行」を歌ったことをよく覚えています。体育館で拡声器をマイクにして歌ったのです。アカペラ(無伴奏歌唱)でしたが、終わるとみんなが盛大に拍手してくれて、凄く誇らしかった。宮田先生に「歌、うまいね」と褒められたことと、この時の拍手が歌手になりたいと心の奥底に芽生えた原点かもしれません。

 でも、歌の勉強などをしたことはありません。当時は歌番組がたくさんあり、日曜日の昼は「ロッテ歌のアルバム」を見て、夜は「シャボン玉ホリデー」。土曜日は「味の素ホイホイ・ミュージック・スクール」をかじりつくように見てました。これさえ見ていればヒット曲すべてが分かりました。橋幸夫さん、舟木一夫さん、西郷輝彦さんと「御三家」の人気絶頂期。彼らの新曲が出ると、自然と覚えていました。大みそかの「紅白歌合戦」は日本国民全員が見ていたんじゃないですか?歌手が本当に華やかな時代でした。

 ◇山本 譲二(やまもと・じょうじ)本名同じ。1950年(昭25)2月1日生まれ、山口県下関市出身の76歳。早鞆高3年の67年、夏の甲子園出場。74年に「伊達春樹」として「夜霧のあなた」で歌手デビュー。北島三郎に師事し、78年「山本譲二」として再デビュー。80年発売の「みちのくひとり旅」が81年にかけてロングヒット、ミリオンセラーに。NHK「紅白歌合戦」に計14回出場。

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