やなせたかしさん 後世に伝えた戦争に対する思い 弟の死、貧困…戦後ショッキングな出来事「晩年も夢で」

[ 2025年8月15日 07:15 ]

やなせスタジオ代表・越尾正子氏(提供)
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 「アンパンマン」の生みの親・やなせたかしさんとその妻・暢さんをモデルにしたNHK連続テレビ小説「あんぱん」(月~土曜前8・00、土曜は1週間振り返り)では、第11週から2週にわたって描かれた飢餓や家族の死などの戦争のリアルな表現が話題を呼んだ。「逆転しない正義とは、おなかをすかせた人に一切れのパンを届けてあげること」。実際に25歳で戦地の中国に赴き、そう達観したやなせさんが伝えたかった平和への思いとはどんなものだったのか。戦後80年を迎えた今年、20年以上秘書として側からやなせさんを見つめ続けてきた「やなせスタジオ」代表取締役・越尾正子氏に聞いた。(那須 日向子)

 「戦死した弟・千尋さんに対するやなせさんの思いは年々悲しさ、つらさが増していた」と語る越尾氏。趣味の茶道を通じ暢さんと知り合い、その縁で1992年に「やなせスタジオ」に入社。秘書として20年以上にわたり、やなせさんの作家活動を支え、2014年から現在まで同社代表取締役を務めている。

 「あんぱん」では、やなせさんモデルの柳井嵩(北村匠海)が飢餓状態の戦地でゆで卵を“殻ごと”むさぼる場面や、海軍少尉となった弟・千尋(中沢元紀)との“再会と別れ”のシーンなどリアルな描写が話題を呼んだ。

 やなせさん自身も1941年1月、21歳の時に徴兵され、その後日中戦争に出征した。上海近郊で終戦を迎え27歳の時に帰郷。そこで2歳下の弟・千尋さんの戦死を知る。越尾氏は、晩年のやなせさんが語っていた「もし今、弟が生きていてくれたら、どんなに心強い存在だろう。昔よりも今の方が1000倍悲しい」という言葉が忘れられない。
 
 「病気とかではなく、否が応でも戦争で死んでしまったっていう事実がその辛さを何倍にもしているのだと思う。戦争で死ななくちゃいけない弟さんの事を思うと、年を取れば取るほどにその悲しさが増していくという…。“先生の正直な気持ちだな”と思って側で聞いていました」

 終戦直後、やなせさんは戦争体験について話したがらなかった。「大勢の戦死した人がいるのに、自分だけが生き残ったことが申し訳なく感じていた」からだ。「千尋さん一人を亡くしたからというのではなく、戦死した大勢の人たちがいるのに自分は戻ってきた。申し訳ないような気がして喋れなかった」とある種の“罪悪感”を抱く。

 当時の日本は今では想像ができないほど貧しかった。そこでやなせさんにショッキングな出来事が降りかかる。「日本の居酒屋で靴を脱いで座敷に上がったところ、靴を盗まれるんです」。現代では、他人の靴を盗むとは信じがたいが、それほど戦後の日本は「物がない」暮らしだったという。

 「最後は座敷にまで持って上がって、盗まれないようにしていた」というが、あまりに衝撃的な出来事だったのか晩年も「靴を盗まれる夢を見た」とやなせさんの心にいつまでも残り続けた。

 その後高度経済成長期を迎え、社会が豊かになってもなお「つらい思い出を思い出したくない」と心にふたをする日々。ところが年を重ねるごとに戦争体験を“生の声”で届けられる人は少なくなってきた。「90歳近くになって、戦地へ行った体験をした人が減ってきた。やはり自分で戦争のことは伝えるべき」と決意。自身の戦争体験をつづった「ぼくは戦争は大きらい ~やなせたかしの平和への思い~」(小学館)が、94歳で亡くなった約2カ月後、2013年12月に刊行された。

 「やなせ先生が一番言っていたのは“一度戦地を体験したら二度と戦争なんかしたくなくなる。戦争っていうのは絶対やっちゃいけない”。そういう強い思いが最後まであったので、きちんと伝えようとしたのだと思う」

 やなせさんが「アンパンマン」をはじめとする作品で私たちへ伝えた平和への思い。世界では今もなお戦禍が続く。戦後80年の節目の年に「逆転しない正義」とは何か、今一度心に問いかけたい。

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