【売野雅勇 我が道8】田原総一朗さんから「才能ない」 アメフト部の先輩からの一言が転機

[ 2025年8月8日 07:00 ]

上智大学のアメフト部に在籍していた頃の筆者(後列左端)
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 大学時代はさまざまなアルバイトをしました。アメリカンフットボール部は年がら年中練習をしていたから、休みといえば1月と7月だけ。時間が限られていたので短期バイトを繰り返していました。

 最初に雇ってもらったのはペプシコーラの配送助手。瓶が24本入ったケースを両手に筋トレだと思って店に運びました。ガソリンスタンドの店員もやったし、新橋にあった寿司屋でサバの骨を毛抜きで抜くバイトもしました。大阪発祥のバッテラを出す店で、当時は魚のにおいも味も苦手だったのによくやっていたと思います。

 建設中だった三角ビル(新宿住友ビルディング)の高層階に10人がかりでコンクリートの壁を階段で運ぶバイトはきつかった。でも日本進出したばかりのマクドナルドの時給が250円だった時代、日給6000円もらえる壁運びはいい仕事でした。ディスコで遊んだりもしましたが稼いだお金は貯金しました。

 将来について考えた時期。入学してから運動しかしてこなかったことに焦りを感じ、文化系の活動もしようと4年生で退部を決意。御茶ノ水にある「アテネ・フランセ文化センター・シネマテーク」で映画の講座があると知り「映画監督を目指そう」と貯金を元手に通い始めました。

 東陽一監督と田原総一朗氏が講師を務める2クラスがあり、曜日の都合がつく田原さんの教室を選択。8ミリ映画を撮るカリキュラムがあって、クラスメート30人がシナリオを提出しました。

 加納典明と桃井かおりの「あらかじめ失われた恋人たちよ」で監督デビューしたばかりで鼻息が荒い田原さんはある日、僕の脚本を片手に「これを書いたのはお前か。才能ないんだよ!」ときつい口調で30分も説教されました。もう泣きたい気持ちでした。

 半年の講座を終えた僕は、次にコマーシャル・フィルムの学校に通学。アラン・ドロンが出演した日本初のメンズブランド「ダーバン」のCMを撮った松尾真吾さんに誘われ、監督の助手を始めました。夏休み中は務める予定でしたが、期日を前に「人間には雑巾のようにこき使われて羽ばたく人と、シルクのハンカチのまま羽ばたく人がいる。売野くんは雑巾になったら終わり。耐えられないから。だから白いハンカチのまま行け」とロマンチックな言葉で“クビ”宣告されました。

 そんな途方に暮れていた時に、アメフト部の先輩から「お前にちょうどいい仕事を見つけたぞ!」と言われました。「売野は使う言葉が面白いからコピーライターに向いている」。どんな仕事か想像できていませんでしたが、カッコいい響きに心が晴れました。

 その先輩は、数十年後に電通社長になる石井直氏。後に適材適所に人材を置くことで名をはせることとなる先輩の先見の明によって、僕の人生は大きく動いていくこととなったのです。

 ◇売野 雅勇(うりの・まさお)1951年(昭26)2月22日生まれ、栃木県足利市出身の74歳。企業のコピーライターなどを経て、81年作詞家に。中森明菜「少女A」、チェッカーズ「涙のリクエスト」、郷ひろみ「2億4千万の瞳」などのヒット曲を生み出した。これまでに1500曲以上の歌詞を制作。2026年に活動45年の節目を迎える。

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