【駒田徳広 我が道16】優勝に貢献して背番号50→10 当初は「嫌ですよ」と断った

[ 2026年5月17日 07:00 ]

87年9月8日の広島戦、9回2死から同点弾を放った
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 1987年(昭62)4月10日の中日戦(後楽園)。初めて開幕戦にスタメン出場して5回、左腕・杉本正さんの外角スライダーを左中間スタンドに運んだ。ちっちゃく構えてコンパクトにスイング。幸先のいいスタートを切った。

 夏前にはバットを34インチ(約86・4センチ)から33インチ(約83・8センチ)に変えた。短い方が自分なりに安心感がある。小さく振っても、打球はそれなりに飛んだ。

 チームが首位を走る中、9月7日の大洋(現DeNA)戦(横浜)の5回、代打でバックスクリーンを直撃。自己最多タイのシーズン12号はプロ野球通算5万5000号のメモリアルアーチとなった。

 翌8日の広島戦(後楽園)では4―5で迎えた9回2死無走者から右翼席へ起死回生の同点弾を放った。フルカウントからファウルを2球打った後の8球目。津田恒実さんの内角低めの速球を捉えた。自分の中ではポンと打っただけという感覚。ビデオを見ると、肘を下に向けて無駄のないスイングができていた。延長10回5―5の引き分けに持ち込み、2位・広島との6・5ゲーム差をキープ。優勝に向かってひた走った。

 翌日の試合に備えて広島入りした10月9日、広島が中日に敗れて優勝が決まった。王貞治監督4年目の初優勝。うれしかった。規定打席には届かなかったが、自己最多の113試合に出場して331打数95安打、打率・287。15本塁打、40打点。自分なりに貢献できたと思っている。

 シーズン最終盤に扁(へん)桃(とう)を腫らして川崎市の聖マリアンナ医大病院に入院。2日に1回、注射針を患部に刺して膿(うみ)を抜く。これが痛いのなんの。看護師さんに羽交い締めされてなんとか耐えた。

 西武との日本シリーズ1週間前に退院。気持ちの張りというのは大したもんだ。調整十分とはいえない状態で臨んだ10月25日の第1戦(西武)。2番・ライトで出場し、東尾修さんから右翼席へ本塁打を放つなど5打数4安打と大当たりした。

 この試合は7―3で勝ったが、その後は工藤公康や郭泰源に抑えられて2勝4敗。日本一はならなかった。

 そのオフ、マネジャーの倉田誠さんから電話で「背番号を50から10にするから」と言われた。「50番トリオ」はすでに吉村禎章が55→7、槙原寛己は54→17に変えている。取り残された感があったが、「嫌ですよ」と断った。

 10は70年代中盤から張本勲さん、ロイ・ホワイト、ヘクター・クルーズ、三宅宗源、加藤英司さんと来て直近は岡本圭右さん。移籍組がつけて2、3年でユニホームを脱ぐイメージがした。そう話すと倉田さんは――。

 「お前、50つけてたらいつまでも途中出場か代打のイメージになっちゃうぞ。レギュラーだという番号に変えた方がいいと思うぞ」

 そう言われたら、確かにそうだ。10をお受けした。

 ◇駒田 徳広(こまだ・のりひろ)1962年(昭37)9月14日生まれ、奈良県三宅村(現三宅町)出身の63歳。桜井商から80年ドラフト2位で巨人入団。3年目の83年にプロ野球史上初となる初打席満塁本塁打の衝撃デビューを飾る。93年オフにFAで横浜(現DeNA)へ移籍。通算2006安打。満塁機は打率.332、200打点とよく打ち、満塁弾13本は歴代5位タイ。一塁手としてゴールデングラブ賞10回。

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