【平野謙 我が道8】中日2年目に背番号57 母が守ってくれるような気がした

[ 2025年10月8日 07:00 ]

中日入団1年目か2年目
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 1978年(昭53)、ドラフト外で中日に入団して最初にもらった背番号は81だった。先輩に「コーチで入ったんか?」とよく言われた。

 この年1軍投手コーチとしてドラゴンズに来られ、同じ寮住まいの稲尾和久さんが太平洋(現西武)の監督時代につけていた番号。洗濯物が返ってくる時、よく81の数字が入った稲尾さんの下着が交じり込んでいた。

 「神様、仏様…」の稲尾さんに会えるのは間違って僕のところへ来た下着を届ける時だけ。恐れ多くてピッチングの話は聞けなかった。

 そう、僕は投手として中日に入ったのだ。1年目は夏場に調子を上げ、ウエスタン・リーグ8試合に登板して34回を投げ、自責点8。2勝0敗、防御率2・12の成績が残っている。

 ウエスタン最終戦のクラウンライター(現西武)戦に先発。2―1で迎えた9回、最後の最後で徳山文宗さんに同点弾を浴び、3勝目を逃したのを覚えている。パームボールを打たれた。これがプロで唯一許したホームランになってしまう。

 順位がほぼ決まった1軍のシーズン終盤、若手にチャンスを与えようということで、僕を上げるという話が出たらしいが、「背番号81が1軍で投げるのはおかしい」という理由で見送られたという。実際に上がったのはドラフト2位、背番号34の小松辰雄だった。

 1年目が終了。手応えとまでは言えないが、中日新聞に来季の有望株として名前を出してもらい、ある程度やれるんじゃないかという気持ちにはなった。だが、投手としてのキャリアはこの1年で終わった。

 2年目の79年には背番号が57に変わった。母の命日が5月7日。母が守ってくれるような気がしてね。縁を感じる番号をもらって張り切っていたが、キャンプから肘の状態が上がってこない。紅白戦で左の藤波行雄さんに自信を持って投げた外角の真っすぐを軽くレフト前に打たれ、がっくりきた。

 右肘は大学時代に死球を受け、痛いのを我慢して投げているうちに、なかなか温まらなくなった。トレーナーから首脳陣に「平野の肘はダメです。投手は無理なんじゃないですか」という報告が行ったらしい。

 大学時代から「平野は野手の方がいい」と思ってくれていた2軍打撃コーチの広野功さんには「外野をやれ」と言われた。

 2軍の紅白戦やシート打撃では「外野を守っとってくれ」と言われることが増え、投球練習はなかなかやらせてもらえない。オープン戦が終わる頃には、完全に外野手一本という流れになった。

 大学時代は外野手をやりたくて毎年転向を願い出ていたくらいだから、バッティングは好きは好きだった。でも自信はない。広野さんにマンツーマンで教えてもらい、毎日バットを振り込んだ。

 ◇平野 謙(ひらの・けん)1955年(昭30)6月20日生まれ、名古屋市出身の70歳。名古屋商大から77年ドラフト外で中日入団。88年に西武、94年にロッテ移籍。右投げ両打ち。俊足強肩の外野手として活躍する。ゴールデングラブ賞9回。盗塁王1回。歴代2位の通算451犠打。引退後はロッテ、日本ハム、中日、社会人、独立リーグなどで指導を続ける。現在はクラブチーム、山岸ロジスターズ監督。

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