【何かが起こるセンバツ記念大会(2)】1960年代の主役 2人のライオンズエース

[ 2023年3月18日 08:05 ]

下関商・池永の明星斬り快投を報じる1963年3月29日付スポニチ紙面
Photo By スポニチ

 熱戦が繰り広げられている第95回選抜高校野球大会。今大会は5年ごとに開催される「記念大会」。一般出場枠が4枠増え36校出場の大会となる。過去の記念大会では後にプロ野球で活躍するレジェンドたちが躍動し、史上初の完全試合が達成されるなど数々のドラマが演じられてきた。「何かが起こるセンバツ記念大会」第2回は1963年の下関商・池永正明と、1968年の箕島・東尾修。

~地元明星相手に快刀乱麻 古豪の2年生エース~

 1963年第35回選抜高校野球記念大会。2日目の第2試合、甲子園は多くの観衆で埋まった。地元の名門で前年秋の近畿大会準優勝校の明星が登場するからである。相手は山口の下関商。左胸に大きな「S」甲子園のオールドファンには懐かしいユニホーム。マウンドに上がったのは新2年生の池永正明。大会屈指の豪腕と評判だった。

 大きく振りかぶり、胸を張って投げ込んでくるダイナミックなフォーム。池永は強打の明星打線を攻めた。キレのいい直球で内角をえぐる。ウイニングショットは外角へのカーブ。初回、2回と無安打に抑えリズムに乗った。2回味方打線が押し出し四球で先制すると速球がさえる。終わってみれば甲子園デビュー戦で3安打8奪三振の完封勝利。優勝候補を寄せつけない快投だった。

 初めてのヒーローインタビュー。殺到する報道陣を見渡して「話は簡単にお願いします」と第一声。「100点満点なら50点」「コントロールは全然ダメ」と素っ気なく話すと「もういいっスか」と走り去った。16歳少年の強心臓ぶりに報道陣から笑いが起こった。

~戦前選抜決勝で無安打無得点負け 悲願のVへ~

 下関商にとって池永は悲願の甲子園Vを狙う切り札だった。1928年センバツに初出場。37年春、38年夏に8強入りする。39年夏の2回戦、千葉商を延長で撃破すると準々決勝は福岡工に完勝。準決勝では長野商を退け決勝に進出した。相手は紀和代表の海草中(現向陽=和歌山)エースの嶋清一は準々決勝までの3試合を完封。準決勝では島田商(山静)相手にノーヒットノーランを記録していた。下関商は後に「伝説の大投手」を呼ばれる嶋に立ち向かったが、まさかのノーヒットノーランを許し完敗した。それから太平洋戦争を乗り越え24年ぶりに巡ってきた全国制覇のチャンス。池永も故郷の期待の大きさを感じていた。

 2回戦は前年秋の近畿大会覇者の海南(和歌山)と対戦。エースは後にヤクルトにドラフト1位で入団する山下慶徳だった。5回までに2点ずつを失いながらも延長戦へ。壮絶な投げ合いが続いた。16回、池永は1死一、三塁のピンチを背負うがスクイズを外し、挟殺プレーで脱した。その裏1死一、二塁。打席には池永。この試合、6打席無安打だった5番打者が真ん中高めの直球を強振すると打球は中堅手の頭を越えた。劇的なサヨナラ打。投打のヒーロー池永は二塁ベース上で白い歯を浮かべていた。

 「まあ5番としてあそこで打つのは当たり前ですよ」

 準々決勝は御所工(現御所実=奈良)に大苦戦。早朝の第1試合、不調の池永が2点を失い打線もつながらない。土壇場9回、下関商打線がようやく目を覚まし一挙3点。奇跡的な逆転勝ちで4強に進出した。あと2つ。池永の目には春の頂が見えていた。

~完封で頂点 新調された2代目大旗をつかんだ~

 準決勝は地元兵庫の・市神港。エースは後に阪急、広島などで活躍する宮本幸信。捕手は巨人V9に第2捕手として貢献する吉田孝司。超高校級バッテリーと激突した。池永は5回に1点を失うが、7回打線が宮本に集中打を浴びせて逆転勝ち。王手をかけた。

 1回戦から準決勝まで対戦相手はすべて強豪の近畿勢。池永は延長16回含む全4試合に完投し、43回自責点2。防御率0・42。驚異的な安定感を誇っていた。決勝の相手は北海(北海道)春夏通じ28回の出場を数える古豪だ。準決勝ではエース&4番・吉沢勝が逆転サヨナラ3ランを放ち早実(東京)に劇的勝利を収めている。大会のチーム打率は下関商の・207に対し・270。決勝は池永VS北海打線がカギと見られていた。

 5万人の観衆を飲み込んだ甲子園。池永は初回1死一、三塁のピンチを招く。打席には前日サヨナラ3ランの吉沢。ところがここで北海ベンチは吉沢にスクイズを命じ、失敗する。豪腕・池永を意識しすぎた北海の消極采配が大一番の流れを変えた。3回、下関商打線が吉沢に襲いかかり4点。5回にも4点を加え完全に主導権を握った。池永は9安打を許しながらもチャンスの芽を摘み取って6奪三振の完封勝利。大らかな時代。池永は翌日のスポーツニッポンに手記を寄せている。

 「佐野主将が大優勝旗を手にしたときはさすがに胸がこみ上げてきた。“ボクらの努力が一つ実った…”これからもまず練習。そして試合し、苦しめられた点をどんどんただしていきたい」

 創部から65年目の全国優勝。16歳の新怪物の目に涙はなかった。

~高卒1年目に20勝西鉄の最強エースに~

 池永はこの年の夏の甲子園に出場。2回戦松商学園(長野)戦でスライディングをした際に左肩を脱臼。故障を抱えたまま決勝にたどりついたがセンバツ1回戦で対戦した明星に敗れ春夏連覇の偉業はならなかった。春連覇を目指した64年センバツは初戦で敗退した。同年秋、西鉄ライオンズに入団した。1年目の65年に20勝10敗・防御率2・27の好成績を挙げて新人王。66年15勝、67年は23勝で最多勝獲得。68年も23勝を挙げた。

 同年オフの12月2日池永は楽しんでいたゴルフを途中で切り上げ福岡市天神の球団事務所に駆けつけた。そこでは新人の入団発表が行われていた。ひな壇に座っていたのはドラフト1位指名を受けた箕島高の東尾修。「頑張れよ。いつでもオレがリリーフでいって勝たせてやるからな」そう声をかけると東尾は初々しい笑顔を浮かべた。東尾は池永が紫紺の大旗をつかんでから5年後、第40回選抜高校野球記念大会で主役になった右の本格派投手だった。

~秋季近畿大会2試合連続ノーヒッターの剛腕が聖地デビュー~

 1968年、第40回記念大会には3人の好投手がいた。前年夏、2年生左腕エースとして準優勝に導いた広陵(広島)の宇根洋介と前年秋の近畿王者で後に東京(現ロッテ)にドラフト3位で指名(入団拒否)される平安(京都)の左腕・池田信夫。もう一人は初出場・箕島の右腕、東尾修である。なかでも東尾は前年秋の近畿大会で1回戦・東山(京都)2回戦・甲賀(滋賀)相手に2試合連続ノーヒットノーランを記録。準優勝している。センバツの舞台では「超高校級」としてスカウトの視線を集めていた。

 1979年の春夏連覇を含む夏1回、春3回の全国制覇。70年代の高校野球をけん引した箕島だが、この大会が春夏通じ甲子園初出場。和歌山・御霊中学3年時、東尾は平安への進学が内定していたが23歳の箕島高の新監督、尾藤公から熱い勧誘を受けた。同校の中島事務局長の「有田川の堤防にバスを並べて甲子園に行こうや」とのセリフが決め手となり、地元の県立・箕島入りを決断した。

~東尾ド派手な1発!箕島の甲子園史が始まった~

 初めて立った聖地。東尾は気持ちの高ぶりを抑えられなかった。初回四球をきっかけに1失点。少し落ち着いた。その裏、同点とし、なおも2死三塁の場面で5番・東尾が左前にタイムリーを放ち勝ち越した。4回には左翼スタンドへホームラン。12三振4安打2失点。緊張の初戦を突破した。試合後、東尾は「ホームランは近めの真っ直ぐ。手応えはありましたけどファウルになるかと思いました」。「打つのと投げるのはどっちがいい?」と問われると「打つ方ですね」と即答。初戦でのスカウト評も「投げるよりも、足はあるしあの打撃はプロ向き」と打者評価の方が高かった。2回戦の高知商戦でも自らタイムリーを放つなど投打の活躍で準々決勝に駒を進めた。

 4強を賭けて戦ったのは広陵。大会屈指の左腕・宇根との対決だった。この試合から4番に入った東尾は2本のタイムリーを放った。投げては3失点も7―3の快勝。進撃は続いた。

~あと2つ 初出場対決 無念の敗退~

 準決勝の相手は平安の池田を打ち砕いた大宮工(埼玉)。初出場ながら前年秋の関東大会を制した優勝候補だ。箕島は2回までに3点をリードするが拙攻で追加点が奪えない。4回2点を返され、7回に同点。8回には勝ち越しを許した。2点を追う9回裏、2死二、三塁。東尾に打席が回る。早いカウントから打ちに出て遊ゴロでゲームセット。36回被安打21、防御率2・00。15打数7安打5打点、1本塁打、2敬遠四球。打率・467。東尾の春は終わった。

 大宮工は決勝で尾道商(広島)を破り初出場初優勝。この大会には市神港(兵庫)のエースとして後の剛球右腕・山口高志も出場している。

~ドラフト1位で西鉄入り。憧れの池永が突然…~

 東尾は夏の和歌山大会2回戦で星林に敗退。甲子園に帰る夢はかなわなかった。

 11月12日東京・千代田区の日生会館で開催された第4回プロ野球ドラフト会議で西鉄ライオンズから1位指名される。全体1位に東映・大橋穣、同2位に広島・山本浩司(後に浩二)同3位に阪神・田淵幸一…全体12番目の指名だった。

 プロ1年目の東尾は無勝利に終わった。その年、池永正明は18勝を挙げエースの座に君臨していた。キャンプではいつもキャッチボールの相手。スライダーの投げ方、投球術も伝授された。翌70年春、運命が暗転する。池永は黒い霧事件に巻き込まれ永久失格処分となった。一方の東尾は…。池永が去りぽっかりと空いたローテーションに組み込まれ1軍の荒波にもまれることになった。

~魂の内角攻め 切れなかったエースの絆~

 野球への道を絶たれた池永とプロ通算251勝、名球会入り、プロ野球殿堂入り。栄光の道を歩いた東尾。2人のライオンズエースは対照的な人生を送った。2022年9月25日、76年の生涯を閉じた池永さんに東尾氏が追悼文を寄せた。「池永さんは中洲にバーを開店。球団からは出入りしないよう言われていたが、こっそり行っていた。いつも野球の話。毎回きつく言われたのが『インサイドに投げろ!』。私が持つ通算165与死球のプロ野球記録は池永さんが与えてくれた勲章だと思っている」。60年代2つの選抜記念大会でつながった2人の絆は終生途切れることはなかった。(構成 浅古 正則)

※学校名、選手名、役職などは当時。敬称略

続きを表示

この記事のフォト

「始球式」特集記事

「落合博満」特集記事

2023年3月18日のニュース