【内田雅也が行く 猛虎の地】「牛若丸」原点の境内 おじゃみ野球の三角ベース

[ 2020年12月9日 11:00 ]

(9)北野天満宮御旅所

85年12月、生まれ育った北野神社御旅所で行われた吉田監督歓迎会で幼友達の警察官に出会い大喜びの吉田監督(左)

 京都市中京区西ノ京、JR嵯峨野線・円町駅から北へ歩いて5分ほどの所に北野天満宮御旅所(おたびしょ)はある。

 「私の原点」と吉田義男(87=日刊スポーツ客員評論家)は言う。生家のすぐ近く。境内は少年時代のホームグラウンドだった。三角ベースの野球。ボールはおじゃみ(お手玉)だった。

 「おたびはね」と縮めた呼び名に愛着がこもる。疎開先から戻った終戦後「おたびで野球をするようになりました」。提供写真は5歳ごろか。境内はだいたい30メートル四方。「時々、ボールが外に飛び出して、商店街の魚屋さんに怒られたもんですわ」。同じ店かどうか、今も道を隔てた場所に鮮魚店があった。

 毎年10月初め、瑞饋(ずいき)祭の会場となる。北野天満宮の神様をお迎えし、豊作を祝う。野菜でつくった芋茎(ずいき)みこしが町を回り、夜店が出る。京都の秋祭りの始まりを告げる行事として有名だ。「さば寿しを食べるんです。懐かしいですなあ」

 起源は古く、菅原道真の平安時代にさかのぼる。そんな場所で投げ、打ち、走る……野球の魅力を知った。すばしこく、運動会の花形だった。

 父・正三郎は家で薪炭業を営んでいた。<昔かたぎで厳しい人だった>と著書『牛若丸の履歴書』(日経ビジネス人文庫)にある。<野球なんかにうつつを抜かすんじゃない。手伝えと父はよく怒った>。

 朱雀第八小から旧制京都二商に進んだ。2年秋、学制改革で新制の山城高(当初は併設中学)に編入となった。だが、野球部には入らなかった。家族の負担を案じたのだった。新制高校1年に進んだ1949(昭和24)年4月、父が他界した。まだ伏見工高建築科3年だった兄・正雄が後を継ぎ店主となった。

 それでも母・ユキノは「好きなことをやればいい」と言い、兄が「野球を続けろ」と後押ししてくれた。6月になって野球部に入った。その母も9月に倒れ、後を追うように逝った。3カ月の間に両親を亡くし、兄弟姉妹5人が力を合わせた。

 甲子園出場、特待生での立命館大進学、そして阪神入りと吉田を「牛若丸」に育てた背景には家族の支えがあった。

 大学1年の秋、中退して阪神に入団した。大学や自宅に足しげく通った阪神スカウト・青木一三に聞いた話を思う。「家業を手伝い、重い炭俵をひょいと持ち上げていた。小さい体(当時身長1メートル64)だが、プロでやれると確信した」

 阪神監督として日本一となった85年12月2日、御旅所で歓迎祝勝会を開いてくれた。母校・山城高で講演会もあった。苦楽が詰まった「原点」で「感激しました」と胸を熱くした。 =敬称略= (編集委員)

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