【レジェンドの決断 中嶋聡2】強肩と経験…戦力であり続けた29年

[ 2016年1月22日 10:30 ]

本拠地最終戦で実働29年の現役生活に終止符を打った中嶋

 86年ドラフトで阪急から3位指名。入団1年目の87年、中嶋は高卒新人ながら早くも1軍を経験した。実働29年は工藤公康、山本昌に並ぶプロ野球記録となる。もう1年現役を続行すれば新記録樹立だったが、12年は3試合、13年は2試合、14年は1試合。近年出場機会は少なく、中嶋自身も「毎年、今年が最後と思っていたし、昨年で辞めるつもりだった」と記録更新に興味はなかった。

 それでも長く現役でプレーできたのには、理由がある。一昨年まで日本ハムGMを務めた山田正雄アマスカウト顧問は「地肩が強かった。中嶋は毎年やめると言ったが“肩が衰えるまではやれ”と伝えた。(13年オフに)鶴岡がFAでソフトバンクへ移籍し、戦力的にも辞めさせられなかった」と明かす。

 山田顧問が初めて中嶋を見たのは32年前。当時は鷹巣農林2年捕手だった。「“凄いやつがいる”と聞いて学校まで行った。帽子のツバを一人だけ上げてかぶっていた。あれが格好いいと思っていたのかな」。球史に残る好投手の球を受けてきた経験も大きかった。阪急時代にはサブマリンで通算284勝を挙げた山田久志の球を受け、オリックスでは95年に佐藤義則とのバッテリーでノーヒットノーランを達成。星野伸之が投じたカーブを素手でキャッチしたことも有名な話だ。

 西武では松坂、日本ハムではダルビッシュの女房役も務めた。「速い投手も遅い投手もいた。曲がる投手がいれば、落ちる投手もいた。誰というわけでなく、一球一球が自分を成長させてくれた」。名投手と数々の修羅場をくぐってきたことが、中嶋の財産となった。

 新しいトレーニングにも貪欲だった。オリックスと日本ハムでチームメートだった同学年の木田優夫GM補佐は「中嶋は若いうちから、どこにいいものがあるかとアンテナを張っていた」と、イチローや山本昌らで有名な初動負荷のトレーニングにも早くから取り組んだ。コーチ兼任となっても、常に試合に出るための準備をしてきた。

 オリックス時代には「メジャーに一番近い捕手」と呼ばれた。強肩に加え、90年には打率・283、12本塁打を記録するなど、打力も備えていた。97年にFA宣言でメジャー挑戦を表明。エンゼルスの入団テストも受けたが条件が合わず、西武に移籍した。今季から日本ハムGM特別補佐に就任し、春季キャンプからパドレスにコーチ留学する。「現役を辞めたら米国に行きたいと思っていた。まさか、コーチで行けるとは思っていなかった」。29年の現役生活は終わったが、長年温めていた夢が新たに始まる。 (横市 勇)

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2016年1月22日のニュース