白鵬63連勝でストップ!ぼう然…「これが負けか」

[ 2010年11月16日 06:00 ]

稀勢の里に寄り切られ、土俵を割る白鵬

 不滅の記録には届かなかった。大相撲九州場所2日目は15日、福岡国際センターで行われ、横綱・白鵬(25=宮城野部屋)が結びで平幕・稀勢の里(24=鳴戸部屋)に寄り切られた。初場所14日目の琴欧洲戦から続いていた連勝は「63」で止まり、史上1位の横綱・双葉山の69連勝の記録を塗り替えることはできなかった。白鵬が金星を与えたのは、昨年秋場所6日目の翔天狼戦以来。最多記録を更新していた連続全勝優勝は4場所で途切れた。

【取組結果


 負けた。土俵下の砂かぶりに転がり落ちた白鵬はぼう然とした表情を浮かべた。悲鳴と歓声が交錯する中、花道を引き揚げる途中には首をひねった。敗戦を受け入れることができなかった。
 「もうちょっといきたかったな、という気持ち。相撲の流れにスキがあった。いままでの63の白星があったということで1つ伸ばしてやる、そういうスキがあった」。19分間も風呂に入って心を落ち着かせてから、そう絞り出した。
 双葉山は連勝が止まった際に無表情で土俵を後にしたが、白鵬の顔には悔しさがにじんだ。初場所13日目の魁皇戦以来、297日ぶりの黒星。負けた瞬間、思い浮かんだ感情は「これが負けか」。負けるシーンを思い描けないほど強かった白鵬の率直な思いだった。
 連勝を止められたのはここ2場所最も苦しめられた稀勢の里。立ち合いの張り差しで白鵬は右をのぞかせたが、いなされてバランスを崩した。回り込まれ、左四つ右上手の形をつくられた横綱は、強引なすくい投げで体勢を整えようとしたが、相手は腰が低く動かない。苦し紛れの内掛けを繰り出したが、上手を引きつけられ寄り切られた。
 場所前、元横綱・大鵬の納谷幸喜氏や入門前にお世話になった日本の父と慕う浅野毅氏(摂津倉庫会長)らに「尊敬する双葉山の記録を抜いていいのか」と漏らした。今月1日の番付発表の際には「数字」を今場所のテーマに掲げた。いつしか取組そのものよりも記録に心を支配されていた。
 その上、上位陣と1度も稽古できなかった。例年相手を務める日馬富士が右肩を痛め一切胸を合わせられなかった。重圧に稽古不足。不安を癒やすため場所2日前から稽古を休み、紗代子夫人を福岡に呼び寄せ一緒に過ごした。いつもの横綱ではなかった。心にスキが生まれていた。
 10月の秋巡業中に比叡山延暦寺を参拝した際、住職の半田孝淳座主から「調息(ちょうそく)」という言葉を贈られた。文字通り「呼吸を調える」という意味。双葉山の記録更新を目指す今場所。「まさしく九州場所につながる言葉」とその額を宿舎の枕元に置いた。この日の朝は育ての親・熊ケ谷親方(元幕内・竹葉山)に「(稀勢の里は)にらんでくるから乗るなよ」と声をかけられた。平常心で土俵に上がることを心掛けたが「慌てた。勝ちにいった」と久々の黒星を振り返った。
 「これはこれでしようがない。大丈夫」。尊敬してやまない双葉山にも届かず、どんな相手にも無心で戦える天下無敵の鶏「木鶏」の境地に達することもできなかった。しかし、63連勝という大記録は残した。敗れて初めて白鵬はその数字の重みを痛感した。

 【過去の連勝ストップ】
 ☆双葉山69連勝 1939年(昭14)春場所4日目。入幕3場所目の新鋭、前頭3枚目・安芸ノ海に外掛けで敗れた。場所前の満州巡業でアメーバ赤痢を患い、体重約20キロ減で臨んだ双葉山は、得意の右四つになったが、相手に食いつかれた。右すくい投げで打開しようとしたが、そこで左外掛けを食らい、崩れ落ちた。その夜、双葉山は「われいまだ木鶏たりえず」と知人に電報を打ったとされる。
 ☆千代の富士53連勝 1988年(昭63)九州場所千秋楽。横綱・大乃国に寄り倒しで敗れる。翌年1月8日に年号は「平成」となり、くしくもこれが「昭和」最後の取組となった。
 ☆大鵬45連勝 1969年(昭44)春場所2日目。前頭筆頭・戸田ののど輪押しに後退するも、土俵際ではたき込んで軍配を受けた。しかし、物言いが付いて協議の結果、戸田の勝ち。実際には戸田の足が先に出ており「世紀の大誤審」と呼ばれた。ビデオ判定導入のきっかけとなった一番。

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2010年11月16日のニュース