大橋巨泉さん逝く…亡くなる直前、妻に指で3と9「サンキュー」

[ 2016年7月21日 05:30 ]

死去した大橋巨泉さん

 司会者、放送作家、ジャズや競馬の評論家などマルチに活躍した大橋巨泉(おおはし・きょせん、本名克巳=かつみ)さんが急性呼吸不全のため12日午後9時29分に千葉県の病院で死去していたことが20日、分かった。82歳。東京都出身。葬儀・告別式は親族で行った。後日しのぶ会を開く予定。日本テレビ「11PM」、TBS「クイズダービー」などの司会者として一時代を築き、「野球は巨人、司会は巨泉」の名フレーズも生まれた。晩年は病魔との闘いの連続だった。

 草創期からテレビとともに歩んだ巨泉さんが旅立った。7日に83歳で亡くなった盟友で“ラジオの巨人”永六輔さんの後を追うように、戦後の放送文化を築いた昭和のともしびがまた消えた。

 都内で本紙の取材に応じた次女でジャズシンガーの豊田チカ(54)によると、妻寿々子さん(68)、実弟で所属事務所社長の大橋哲也氏夫妻の3人が最期をみとった。言葉が出なくなっていた巨泉さんは亡くなる直前、47年連れ添った寿々子さんに「ありがとう」と口を動かして感謝を表現。手の指を動かし3と9で「サンキュー」のメッセージを示し、眠ったまま静かに息を引き取った。

 「やりたいことはやっていい。遊ぶのはいいこと」を信条に生きた巨泉さん。4月に一時意識不明になり入院。5月下旬から集中治療室に入り、ほぼベッドで寝たきり。最高80キロ以上あった体重は40キロ台に落ちた。そうした状態で、寿々子さんに「カナダに行って馬が走るのが見たい」と言うこともあった。一年の大半を海外で過ごし、馬主だった巨泉さんらしい願いだった。

 献身的に看病を続けた寿々子さんは「どうぞ大橋巨泉の闘病生活に“アッパレ!”をあげてください」とコメント。「自他共に許す“わがまま”」な巨泉さんが「約11年間の闘病生活を勇敢に闘ってきました」と報告。11日に永六輔さんの訃報が流れた際にはショックの大きさを考慮し知らせなかったという。黒柳徹子(82)、永さんと1月26日に収録したテレビ朝日「徹子の部屋」が巨泉さん最後のテレビ出演(2月4日放送)となった。

 2005年に胃がんの手術を受けた巨泉さんは、13年にステージ4の中咽頭がんを発症。以来3回のがん手術と4回の放射線治療を受けた。親族は体調が悪化した要因を、昨年11月に発症した2度の腸閉塞(へいそく)による衰弱と在宅介護の医療機関から受けた鎮痛剤の投与とみている。

 18日に営まれた葬儀には、親族ら約40人が参列。遺影の横には大好きなワインを注いだワイングラスが置かれた。喪主は寿々子さん。浄土真宗だった巨泉さんの法名は「巨泉院釈克導(きょせんいんしゃくこくどう)」。功績を称えて芸名と、本名の「克」が入った。

 「テレビの申し子」であるとともに、新しいライフスタイルを常に提示してきた「時代のパイオニア」。日本が高度経済成長の道を進んでいた時代に、「11PM」で麻雀などのギャンブルやお色気、スポーツを積極的に取り上げ「仕事と遊び」の両立を呼び掛けた。

 延べ20年にわたり「週刊現代」で連載したコラム「今週の遺言」は、先月27日に発売された同誌で最終回となった。関係者によると、巨泉さんは「どうしても書きたい。読者にきちんと伝えたい」と強く希望。「最後の遺言」として安倍政権を批判。自民1強に警鐘を鳴らし、反骨の人であり続けた。

 ◆大橋 巨泉(おおはし・きょせん、本名克巳=かつみ)1934年(昭9)3月22日、東京市(現東京都)生まれ。少年期から米国に憧れ英語学校で学ぶ一方、日大一高を卒業。その後早大に進学するも中退。放送作家からテレビ司会業に転じた。90年に“セミリタイア”宣言してからはカナダ、オーストラリア、ニュージーランドの永住権を得て海外を中心に生活。01年には民主党から参院選に出馬し当選した。祖父の大橋徳松さんは伝統工芸のガラス細工「江戸切子」の名人として知られた。

続きを表示

2016年7月21日のニュース