ちばてつや氏 打ちのめされ立ち上がるジョーに重なった日本の姿

[ 2015年8月13日 12:41 ]

ちばてつや氏は、事務所応接間にあるジョーの巨大イラストの前で笑顔

 戦後70年、日本で独自の発展を遂げ、日本人をさまざまな形で描いてきた漫画。激動の時代をペンで生き抜いてきた巨匠たちは今、何を思うのか。第1回は「あしたのジョー」のちばてつや氏(76)。高度経済成長期のヒーローとなったジョーを「何度も立ち上がる姿に、人々は戦後の日本を重ねたんでしょう」と振り返った。戦争体験とともに、あすへの提言を聞いた。

 「あしたのジョー」は高度経済成長期の1968年(昭43)開始。貧しかった日本が豊かさを求めて突き進む、パワーに満ちた時代だった。

 「戦争は、ついこの前だった。二度と立てないほど打ちのめされても立ち上がるジョーが、戦後の日本と重なったんでしょう。焼け跡だらけで、誰もが貧しく、追いつけ追い越せと必死だった」

 公式設定にはないが、トレーナー段平に敗残兵のイメージを持っていた。

 「左目の眼帯は、ボクシングでなく実は戦争でやられたのでは?どこの戦地に出征したのかな?などと考えながら描いたこともある」

 ジョーが青春の全てを懸け、真っ白に燃え尽きたラストは漫画史に残る名場面。最後のコマに込めた思いがある。

 「真っ白になるまで頑張れば、新しいあしたが来る。若い人に伝えたかった。いいかげんな仕事をしてちゃあしたは来ない。やろうと決めたことに全力投球。日常の身近な問題でもいい。宿題を、きょうやると決めたら命懸けで集中してやるとかね」

 「ジョー」には自身の戦争体験が描かれている。韓国人ボクサー金竜飛が、自身の過去を語る場面。

 「描いていてつらかった。思い出してもつらい場面」

 朝鮮戦争で孤児となった金竜飛は、ひん死の兵士から食料を奪い、殺してしまう。その兵は家族のため食料を持って脱走した実の父と判明する。

 「あの時(実際漫画で描いていた)朝鮮戦争ではなく、満州から引き揚げて帰国した私の記憶を描いていると気付いた」

 終戦時は6歳。父が勤める満州国奉天(現中国瀋陽市)の印刷工場社宅に、一家で住んでいた。

 「8月15日を境に、周囲の中国人たちの態度が変わった。日本人の家は襲われ、殺された人もいたと聞く。9月には父の仕事仲間と家族が集まり、夜逃げ同然に社宅を離れた。だけど逃げ込んだ地元の警察署はめちゃめちゃにガラスが割られ、電気が消えていた。幸運にも、父の同僚の中国人が自宅の物置の屋根裏部屋にかくまってくれた。身を潜めて暮らし、冬を越すと日本への引き揚げ船が出ていると聞いた」

 奉天から南西へ約300キロ。葫蘆(ころ)島の港まで逃げるように歩いた。引き揚げ中に亡くなった日本人は24万人という。

 「地面のくぼみにたまった雨水を飲んだ。大人は倒れた人を揺すり、起きなかったら、ポケットを探り、持ち物を奪い、服を脱がし自分が着た。みんな誰もが腹をすかせていた。ビスケット1つ、小さな缶詰1つに命懸けになる光景もあった」

 帰国は、社宅から逃げた1年後の夏。千葉県の父の実家へ行く途中“ジョーのモデル”に会う。

 「上野駅の構内やガード下に、空襲で焼け出され真っ黒に汚れた大勢の孤児がいた。野性的で、生きるためなら盗みでも殺人でもするようなギラギラした目をしていた」

 戦後70年、日本は豊かになった。だが今、どこか危うい空気も感じている。

 「私は戦争を渦に例えます。最初はゆっくり流れる程度の小さな渦。でも大きくなると、泳ぎのうまい人が、いくらもがいても抜け出せない。幸い渦はまだ大きくなっていない。いきなり大きな渦は来ない。渦に気付いた人が精いっぱい近づかないようにしないと、国民の一人一人がマヒして、やがて戦前のように国中が引き込まれてしまう」

 上野駅で見た、ジョーのような少年が二度と現れないよう祈っている。

 ◆ちば てつや 1939年(昭14)1月11日、東京生まれの76歳。同年秋、朝鮮半島に渡り、41年1月に奉天へ。帰国後は千葉県旭市を経て東京都に住む。日大一高3年の56年に単行本作品でプロデビュー。代表作は「ハリスの旋風」「おれは鉄兵」「紫電改のタカ」「のたり松太郎」「あした天気になあれ」など。12年、日本漫画家協会理事長に就任。文星芸大マンガ専攻教授。02年紫綬褒章、12年旭日小綬章受章。

続きを表示

2015年8月13日のニュース