【藤川球児物語(46)】もがき苦しんだ2020シーズン 「プロとして失格」と現役引退を決意 

[ 2020年12月29日 10:00 ]

9月1日の引退会見で涙をこらえる藤川球児
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 2020年、世界はコロナウイルスとの闘いを迫られた。日本のプロ野球も大きく揺れ動いた。これまでの日常が続いたのは2月キャンプまで。3月のオープン戦から無観客試合となり、開幕は延期。4月に非常事態宣言が発出されると、球団の動きも止まった。

 「寂しい。こんなに寂しいことはない」と藤川球児は現実を見つめていた。球場からファンの姿が消えた。勝利とともに起こる歓声、三振を奪ったときの拍手、そして打たれたときのヤジ。すべてを懐かしく思い出していた。

 「お客さんがいようがいまいが、100%の力を出すのがプロだと思っていた。でも、お客さんの反応がなくなったら、全然力が出なくなった。反応がないって、こんなに寂しいとは」

 気持ちの面でもコンディショニングでも影響は大きかった。開幕が6月19日と決まったのは5月末。前年のシーズン終了とともに、翌年に向けて時間をかけて仕上げるこれまでのペースも崩れた。開幕前に腰痛が発症。シーズンでも救援失敗が続き、2度の登録抹消を余儀なくされた。コロナに苦しんでいる多くの人がいる。自分だけが苦しいわけではないと思っていたが、40歳の体には酷な条件だった。

 肩、肘への負担ものしかかった。医師からは「肘だけでも5カ所くらいの手術が必要」と伝えられていた。粉骨砕身。いつつぶれてもいいという覚悟でプレーを続けてきたが、「1年間戦う体の準備ができないのはプロとして失格」と引退の決意を固めた。

 高知・城北中3年のときに、書いた作文では将来の夢を「甲子園に出場し、プロ野球選手になって、世界中の人々の心に夢という名のメダルを贈り続けたい」とつづった。コロナ禍での引退。最後に何が残せるか。「周りがどう感じるかは後のこと。自分が正解だと思うことを貫くしかない」と進むべき道を定めた。

 調整に万全を期して、戦力としてチームに戻り、最終登板まで全力投球をする。9月1日の引退会見後から厳しいトレーニングを自らに課した。藤川は最後まで戦い続けた。=敬称略=

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2020年12月29日のニュース