内田雅也が行く 猛虎の地(3)個性派集団が暮らした選手寮

[ 2019年12月3日 08:00 ]

1955年、若竹荘玄関前で同じく新人の佐藤敬典投手(右)と梅本正之さん=梅本さん提供=
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【(3)阪神独身寮「若竹荘」】

 昭和30年代、甲子園球場一塁側アルプススタンドの西側に阪神独身寮「若竹荘」があった。

 西側には今も残るテニスコートがあった。戦前は南側に計102面の通称「百面コート」が広がっていた。国際的なテニス選手養成のため宿泊施設「庭球寮」があった。戦中は沢村栄治ら巨人が遠征時に利用していた。

 この庭球寮を再利用・改装したのが若竹荘だった。球団史では若竹荘完成は1956(昭和31)年3月1日となっているが、55年、耐久高(和歌山)から入団した梅本正之(83)が1年目から若竹荘で過ごしたと語っている。

 「ボイラーに火を付けて風呂を沸かすのと、風呂洗いは1年生の仕事だった。すごい先輩ばかりの個性派集団だった」

 鉄骨2階建て。6畳一間で16室あった。小山正明、藤本勝巳、大崎三男……ら1軍主力をはじめ、選手24人が暮らした。後年、鎌田実、三宅秀史、並木輝男、遠井吾郎……ら後の主力選手が次々と入寮してきた。

 食事付きで寮費は月3000円ほど。毎月25日の給料日には洋服屋が訪れ、注文を聞いて回った。食堂の牛乳、卵は飲食した分を帳簿につけ、月給から天引きされるシステムだった。「バナナは無料だったかな。練習や試合後に帰ると冷たい牛乳にバナナを入れてかき混ぜる。寮で“ミックスジュース”とか言って、はやってたなあ。あれはうまかった」

 2人1部屋。梅本は同郷和歌山出身の藤本と同部屋だった。「やさしい方だった。後輩のオレの布団まで敷いてくれた」中庭での猛烈な素振りも目の当たりにした。

 寮の北側にはプールがあった。50メートルの競技用に飛び込み用プール、夜間照明や1万人収容のスタンドを備えた甲子園水上競技場(大プール=37年完成)が残っていた(74年閉鎖)。夏には忍び込んで泳ぐ者もいた。

 58年10月1日発行の雑誌『ベースボール・タイガース』(月刊スポーツ社)に若竹荘にいるサル「トク」の記事がある。小山が飼っているペットで57年、週刊誌の投稿欄を通じて譲り受けた。譲り主は何と阪急軍初代主将、慶大時代から大スターだった宮武三郎(56年他界)の娘さん。この交流から60年1月、2人は結婚している。

 阪神の選手寮は球団創設直後37年、作家・佐藤紅禄の屋敷を買い取った「協和寮」が45年8月の西宮大空襲で焼けた。戦後は甲子園球場スタンド下2階で生活していた。また甲子園のやっこ旅館や夕立荘に間借りした。

 62年3月には甲子園球場東側に鉄筋コンクリート5階建ての「虎風荘」が完成。若竹荘は役目を終えた。梅本は引退後、長く虎風荘で寮長を務めた。=敬称略=(編集委員)

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