【山本譲二 我が道13】600万円を持って元日の朝に下関へ 母は肩を震わせて泣いた

[ 2026年4月14日 07:00 ]

北島のオヤジとゴルフ場で
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 「みちのくひとり旅」は発売から9カ月、1981年5月にはすでに15万枚も売り上げました。所属レコード会社「ポニーキャニオン」の羽佐間重彰社長は全社員に「みちのく…」のカラオケテープ持参で夜の街に飲みに出かけようと指示を出してくれました。6月29日にフジ「夜のヒットスタジオ」に出演して歌うと、翌日福岡のレコード店で開かれたキャンペーンでは、商店街周辺まで人があふれました。8月13日のTBS「ザ・ベストテン」に9位で初登場。翌週はランク外でしたが、27日に再びランクインすると、翌82年2月4日まで23週連続でランクインするロングセラーとなりました。

 11月24日、東京体育館での「レコード8社対抗新春オールスター運動会」の収録の最中、「第32回NHK紅白歌合戦」初出場決定が伝えられました。研ナオコさんらが組んだ騎馬戦の馬上でガッツポーズをした思い出があります。ずっとブルゾン姿で「みちのく…」を歌ってきましたが、大みそかの「紅白」本番では初めて純白のスーツ姿で歌いました。楽屋で北島のオヤジから「去年のこの日は千葉でキャンペーンをしていただろう?今年は2人で紅白だ。でも、あの日の悔しさがあったことを忘れるんじゃないぞ」と言われて、余計緊張しました。

 その2週間ほど前、北島のオヤジから「頑張ったな。マンションでも車でも家でも何でも買ってやる、何がいい?」と聞かれました。今ならば違う答えでしょうが、その時は「金をください」と答えました。ずっと母親に金の苦労ばかりさせてきたからです。「1000万でいいか?」と言われ、源泉徴収分を除いた900万円をもらいました。後に結婚する妻の悦子のアドバイスで予定納税分の300万円を残し、元日朝に下関へ戻り、母に渡しました。「悪いことして稼いだ金やない。好きなことに使うてくれ。もっといい目見させてやるけん」。そう言って渡すと母は肩を震わせて泣いていました。我ながら、その時の自分は格好良かったです。実は、もっと格好良かったのが、その2年前の北島のオヤジです。

 松原のぶえが華々しくデビューし、大橋純子が「紅白」出場を決めた79年12月です。翌80年に「ダンシング・オールナイト」が大ヒットする、もんたよしのりと3組の家族を招いて慰労の食事会が開かれました。北島のオヤジの気遣いで、売れていない自分の両親も呼んでくれていました。喜びいっぱいの他の家族テーブルを素通りして、北島のオヤジはウチの父の横に座り「お父さん。後ろのテーブルはにぎやかですよね。でも、心配しないで。山本は絶対に売れますから」と断言してくれたのです。後に「俺、ちゃんと言ったよな」と笑ったオヤジ。「いいや、言ったではなく、言い切ってくれました」と返しました。あの一言があったからこそ、山本譲二の「みちのくひとり旅」が生まれたと信じています。 

 ◇山本 譲二(やまもと・じょうじ)本名同じ。1950年(昭25)2月1日生まれ、山口県下関市出身の76歳。早鞆高3年の67年、夏の甲子園出場。74年に「伊達春樹」として「夜霧のあなた」で歌手デビュー。北島三郎に師事し、78年「山本譲二」として再デビュー。80年発売の「みちのくひとり旅」が81年にかけてロングヒット、ミリオンセラーに。NHK「紅白歌合戦」に計14回出場。

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