【売野雅勇 我が道18】帰郷を覚悟したチェッカーズ 運命を分けた「涙のリクエスト」が快進撃

[ 2025年8月19日 07:00 ]

84年末「涙のリクエスト」で紅白歌合戦に初出場したチェッカーズ

 1983年9月、チェッカーズは「ギザギザハートの子守唄」(作詞康珍化)でデビューしました。

 アマチュア時代はドゥーワップ・グループとして活動していましたが、アイドルとして売り出されることが決定。新人としては破格の宣伝費がかけられました。しかしこの楽曲は期待されたほどセールスが伸びませんでした。

 11月に再会した彼らは浮かない顔。「デビューおめでとう」と声を掛けるとリーダーの武内享くんは「俺たち、これからどうなっちゃうんでしょうか?」と言い、鶴久政治くんも「次が売れないと、僕は久留米に帰って八百屋を継がなきゃならないんです」と心底不安そうでした。

 僕は山梨の河口湖にあるスタジオで彼らと一緒にレコーディングをした時から売れるなら、彼らの元々の存在感に100%フィットした世界を描いた「涙のリクエスト」だと信じていました。

 7人の青年たちから醸し出される健気(けなげ)な感じと一途(いちず)な思いは僕が描いた主人公そのもの。今の彼らの魅力を伝えられると信じていました。

 「ビートルズだって、身近なところでは中森明菜だってセカンドシングルで大ブレークしただろう」と伝えると、2人はいつもの愛くるしい笑顔に戻りました。

 運命を分けた「涙の…」は翌84年1月に発売。快進撃が始まりました。2月にTBS「ザ・ベストテン」内のコーナー「今週のスポットライト」に取り上げられると、3月から7週連続で1位を獲得。浮上してきたデビュー曲と、この後5月に出た「哀しくてジェラシー」の3曲が同時期にトップ10入りする偉業も達成しました。

 キュートな7人が、社会現象になっていく。作曲した芹澤廣明さんと僕は大変なことになっちゃったなぁと驚きました。

 4枚目のシングル「星屑のステージ」もヒットし、続く5枚目の「ジュリアに傷心(ハートブレイク)」でさらなるヒットを出さなくてはいけない使命を抱えていたのでデモ音源を聴いた時は衝撃でした。

 芹澤さんの魂がこもった曲に導かれるように、♪キャンドル・ライトが――という歌い出しが浮かぶと、そこから一気に書き出すことができました。

 結局4回書き直しましたが、本当の意味での生みの苦しみを味わったことで、一人前の作詞家にやっとなれたように感じました。サビの歌詞は最後まで試行錯誤しました。芹澤さんの「名前を入れたら?」という発案にのり、当時まだ幼稚園に入ったばかりの芹澤さんのお嬢さんのユリアちゃんから、名前をいただいたんです。

 チェッカーズ最大のヒット曲になった中、芹澤さんと僕は正真正銘のヒットメーカーの仲間入りを果たしたわけです。30年以上たって藤井フミヤくんから「売野さんには、一生歌える宝物のような歌をあの時代にいただいた」と言われた時は涙が出ました。

 ◇売野 雅勇(うりの・まさお)1951年(昭26)2月22日生まれ、栃木県足利市出身の74歳。企業のコピーライターなどを経て、81年作詞家に。中森明菜「少女A」、チェッカーズ「涙のリクエスト」、郷ひろみ「2億4千万の瞳」などのヒット曲を生み出した。これまでに1500曲以上の歌詞を制作。2026年に活動45年の節目を迎える。

続きを表示

「美脚」特集記事

「中居正広」特集記事

芸能の2025年8月19日のニュース