【細川たかし 我が道5】都会に行けば歌手になれる 中卒でタクシー専門整備工場に就職

[ 2025年6月5日 07:00 ]

中3時の通信簿、社会はいつも「5」でした
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 真狩中2年生の頃、初恋を経験しました。相手は大西清子さんという同級生。何か商店をされていた家のお嬢さんでした。その店の前を自転車で通るたびにドキドキしていたことを今でも思い出します。勇気を振り絞って、生まれて初めてラブレターを書きました。何とか彼女に渡したのですが、封も切らずにそのまま戻ってきました。苦い初恋です。歌手デビューしてから、テレビの番組でスタッフが捜したら、彼女は九州にいらしたそう。スタッフが会いにいくと「応援しています」とメッセージを頂いた思い出があります。地方の中学生は純朴そのものでしたね、ハハハ。

 学校の勉強は、ある意味凄かったです。通信簿には見事に1から5まで全部ありました。英語は1、数学が2、国語が3という感じです。社会だけは大得意で、ずっと5。特に歴史が好きで、年号とか全て暗記していました。社会だけは学力テストで中学校で1番だったことがあります。音楽?普通でした。ただ、歌声は当時からでかかったことは間違いありません。「細川、いい声してるな」と褒められたので、気分良くなって余計に目いっぱい声を出してました。学芸会とか教室で、ザ・ベンチャーズのコピーを、バンドでドラムを叩きながら歌っていた一方、村田英雄さんや三橋美智也さんの歌を大声で歌っていました。確か、3年生の秋に井沢八郎さんの「北海の満月」が出ました。大好きなこの歌をよく歌っていました。卒業アルバムに「北海の心 満月の姿 演歌!細川貴志」と書いたほどです。その頃から、自分は絶対に歌手になるもんだと思っていました。

 中学卒業とともに、集団就職で札幌に出ました。予定通りというべきか、とにかく都会に出たい。都会に行けば歌手になれるかもしれない、という思いからです。家から8キロぐらい離れた最寄りの狩(かり)太(ぶと)駅(現在のニセコ駅)から汽車に乗って札幌に出ました。初めての一人暮らしの心細さよりも、夢に向かっている希望の方が大きかった気がします。母親が駅まで見送りに来てずっと手を振ってくれたことも覚えていますが、気持ちはすでに札幌に飛んでいましたね。

 「浜野自動車」という自動車の整備工場に塗装工の見習いとして入社しました。当時、中卒の初任給は1万2000円ぐらいでした。カレーライスが50円の時代です。工場の2階の大部屋が宿舎で、20人ぐらいが住み込みで働いていました、タクシー専門の整備工場で24時間営業です。事故でぶつけたタクシーを夜中に板金、塗装修理をするのです。雪道でのスリップ事故が多く、冬場の方が忙しかった記憶があります。はっきり言って、エンジニアや板金よりも塗装の方が楽でした。元々長く勤めようなんて思っていなかったので、楽な仕事が良かったのです。仕事はすぐに覚えました。マスクをしていましたが、今思うと一日中シンナー吸っていましたね。

 ◇細川 たかし(ほそかわ・たかし)1950年(昭25)6月15日生まれ、北海道出身の74歳。札幌・ススキノのクラブ歌手時代にスカウトされ、75年4月に「心のこり」で日本コロムビアからデビュー、第17回日本レコード大賞最優秀新人賞。82年「北酒場」、83年「矢切の渡し」で史上初の日本レコード大賞2連覇。84年「浪花節だよ人生は」で同賞最優秀歌唱賞を受賞し「レコード大賞3冠」を達成。ほかに「望郷じょんから」など。

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