西武5000勝到達 中西太氏、東尾修氏、伊東勤氏 レジェンドOB3人が振り返るライオンズ

[ 2022年8月29日 05:30 ]

西武 通算5000勝到達

現役時代の中西太氏
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 【中西太氏 適材適所で使い長所を生かした三原流】西鉄は日本シリーズで巨人を倒して3連覇し、「野武士軍団」といわれた。豪快なイメージがあると思うが、三原脩監督がかなり厳しい練習をさせ、基本を徹底させた。今のように情報がない時代。春の合宿では毎日1時間のミーティングをして、黒板やチラシ紙に書いたものを覚えた。

 1952年に私が入団し、青バットの大下弘さんがトレードで加入。53年に豊田泰光君が入団した。成長途上の私たちは、大下さんという天才打者の大先輩をリーダーとして一生懸命、汗を流した。
 三原のオヤジは選手を適材適所で使い、長所を生かした。ワンポイントリリーフに、代打の専門職もつくった。仰木彬君を投手から二塁にコンバートして鍛え上げた。二遊間を守る河野昭修さんの守備力を評価して一塁手にし、若い人の送球ミスを捕球でカバーしてくれた。そして鉄腕・稲尾和久の入団した56年から日本シリーズで3連覇した。若い野手が自信や実力をつけたところに、投手の神様が出現した。

 私も新人王、5度の本塁打王になった。今のチームも当時のように個性的な選手が多い。ショート(源田)は日本一だと思うし、4番(山川)は“ホームランなら誰にも負けん”という打撃をしている。私の仲間は皆亡くなって、寂しい。だから、今のチームを興味を持って見ています。(元西鉄ライオンズ監督)

 ▽草創期(1951~58年)51年に西鉄クリッパースが同じ福岡の西日本パイレーツを吸収合併して西鉄ライオンズが誕生した。総監督として三原脩を招へいし「怪童」こと高松一の中西太が52年に入団。同年4月に東急からトレードで「青バット」の大下弘を獲得し、53年に水戸商から豊田泰光が入団した。54年にリーグ初優勝。稲尾和久が入団した56年に巨人との日本シリーズを制して初の日本一。同年から巨人を倒して3年連続日本一に輝き、「野武士軍団」と呼ばれる。

 【東尾修氏 血の入れ替えでチーム生まれ変わった】5000勝のうち、私はおよそ20分の1にあたる251勝。少なからず貢献できたと思っている。1970年の春に黒い霧事件が発覚。池永正明さんら先輩方が去ったことで登板機会が飛躍的に増えた。その年に11勝したがチームは史上初の最下位。71、72年も最下位に沈むが、72年に入団してきた加藤初さんと2本柱として私が18勝、初さんが17勝。ローテーションも何もない。ダブルヘッダーがあると宿舎でゴロゴロしながら「どっちが投げる」と2人で決めていた。福岡時代は128勝144敗。西武では123勝103敗。登板数は413に対して284。最初の10年、誰よりも投げさせてもらったことが、糧になっている。

 太平洋時代、印象に残っているシーズンは23勝で初めて最多勝を獲得した75年。江藤慎一監督の下、白仁天さんが首位打者。土井正博さんが本塁打王。投打がかみ合い前後期通算で3位に入った。だが直後に江藤さんが退団。1年先も見通せなかった。78年オフ、西武ライオンズとなると基満男さん、竹之内雅史さん、真弓明信、若菜嘉晴らが移籍していった。82年に日本一になった際、クラウン時代の仲間は私と永射保、大田卓司、鈴木葉留彦、立花義家の5人だけ。寂しかったが根本陸夫監督が血の入れ替えを断行したからこそチームは生まれ変われた。後輩たちには苦難の時代からはい上がったライオンズ魂を引き継いでいってほしい。(スポニチ本紙評論家)

 ▽低迷期(1969~79年)西鉄の選手が八百長に関与したとされる「黒い霧事件」が69年から71年にかけて発覚。弱体化したチームの再建を目指し、73年に太平洋クラブ、77年にクラウンライターとなるが優勝とは無縁だった。不安定な経営状態の中で、68年ドラフト1位で入団した東尾修がエースとしてチームを支え、75年と78年に自己最多23勝をマーク。78年のオフに経営権が西武に譲渡され、翌シーズンから本拠地が埼玉・所沢に移転された。

 【伊東勤氏 引き継がれる“勝つための”広岡イズム】現役22年間で14回のリーグ優勝、8回の日本一を経験させてもらった。そんな黄金期の原点は広岡達朗監督のチーム改革だったと思う。“勝つためには何をしなければいけないか”をテーマに徹底した教育を施された。技術、体力は日頃の練習を含めてキャンプからつくり上げていく。コンディションを維持するために食生活から変えられた。当時のプロ野球選手は暴飲暴食が当たり前。試合前に酒のにおいがする選手もいた。食生活を管理され、戦う前の基礎の基礎から叩き込まれた。目に見えてケガ人が減っていった。レギュラーが安定して試合に出る。それだけで他球団を戦力で圧倒していた。

 最も強かったと感じるのは日本シリーズで巨人に4連勝した1990年からの3年間。負ける気がしなかった。黄金期は現場も最強だったが、編成部門も凄かった。新人補強で投手陣は渡辺(久信)、石井、潮崎、野手では辻さんや清原。トレードでは平野さん、鹿取さんを獲った。外国人では郭泰源にデストラーデら。毎年、的確な補強が行われ、チーム力がアップした。

 FAで主力が抜けていく厳しい時代。ライオンズは選手育成で補い、常に上位争いをしている。だから“勝つためのDNA”は確実に引き継がれていると思う。今年は若い投手陣がいい。ぜひ優勝をつかみとってほしい。(スポニチ本紙評論家)

 ▽黄金期(1986~94年)79年に西武として再スタートし、広岡達朗監督の下で82年に初のリーグ優勝と日本一。翌83年に2年連続日本一に輝いた。采配を譲り受けた森祇晶監督がさらなる常勝軍団をつくり上げる。86年から94年まで指揮した9年間で8度のリーグ優勝と6度の日本一を達成。打者は清原和博、伊東勤、辻発彦(現監督)、石毛宏典、秋山幸二、デストラーデ、田辺徳雄(現2軍野手特命コーチ)、投手も渡辺久信、工藤公康、東尾修らタレントがそろっていた。

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