【川淵三郎という男】サッカー、バスケで手腕発揮“組織のまとめ役”にうってつけ

[ 2021年2月11日 15:15 ]

五輪組織委・森会長辞意、後任は川淵氏

川淵三郎氏
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 こういうときに川淵三郎さんほど頼りになる人はいない。Jリーグ初代チェアマン、日本サッカー協会会長、日本バスケットボール協会会長として組織をまとめることにかけては、右に出るものはいないからだ。

 1993年のJリーグ開幕時、10チームを決めたエピソードが川淵さんの人柄を物語っている。当初は8チームでスタートしようとしたが、参加希望チームに対してヒアリングを続けるうちに「10でいこう」となってしまった。清水は「親会社を持たない理想のチーム」ということで加えた。名古屋もトヨタ自動車がいち早く企業名を出さないことに賛同した。住友金属(現鹿島)も「99・999%ない。ただし屋根付きのスタジアムでもつくるなら別だが」と伝え、茨城県知事が本当につくることを決断すると、急転参加チームに加えた。予定よりも2チーム増えてしまったが、一方で、ホームタウンがなかなか決まらなかった三菱自動車(現浦和)には、本田技研が参加を撤回して空いた浦和を紹介した。開幕へ向けてもVゴール方式や統一されたユニホーム、グッズの開発などさまざまなアイデアを取り入れた。「走りながら考えよう」と、スタッフのアイデアを積極的に取り入れた。状況を見ながら進めていくやり方は、大きなことをやるときほど力を発揮する。バスケットボールの2つの男子リーグを統一したときも、剛柔混ぜながらまとめたのは川淵さんの手腕だった。

 小、中学生の時は野球少年で、劇団にも所属し、ラジオドラマにも出演した。高校からサッカーを始め、早大時代に日本代表に選ばれた。1964年東京五輪代表にも選ばれ、アルゼンチン戦では起死回生の同点ゴールを決めた。その試合では、試合用のスパイクが前日の練習で雨に濡れて使えなくなってしまい、練習用のスパイクで出場してゴールを決めた。ここ一番の勝負強さは学生時代からだ。

 首都大学東京(現東京都立大)理事長や日本トップリーグ機構代表理事なども勤め、スポーツ界全般に熟知している。さらに東京五輪招致にも貢献している。東京五輪では選手村の村長をやる予定だった。世界最大のスポーツの祭典、組織委員会のまとめ役としてはうってつけだと思う。(専門委員・大西純一)

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2021年2月11日のニュース