「東洋の魔女」主将 中村さんしのぶ会に500人

[ 2013年12月9日 17:02 ]

 1964年東京五輪のバレーボール女子で金メダルを獲得し「東洋の魔女」と呼ばれた日本代表の主将で、10月に80歳で死去した中村(旧姓河西)昌枝さんをしのぶ会が9日、東京都内のホテルでバレーボール界関係者ら約500人を集めて開かれ、ともに五輪に出た寺山(旧姓宮本)恵美子さんは「河西さんあっての私たちだった。偉大でした」とあいさつした。

 中村さんはセッターで、故大松博文監督が率いた代表チームと、実業団の日紡貝塚の中心選手だった。メンバーだった井戸川(旧姓谷田)絹子さんは「助監督のようだった。母であり、お姉さんでもあった」とその存在の大きさを口にした。

 引退後はママさんバレーの普及や発展に尽力し、2008年に世界バレーボール殿堂入りした。20年東京五輪の招致成功も喜んでいたそうで、寺山さんは「(20年には)聖火ランナーとして走り、開会式を見て、好きなバレーボールを応援すると言っていた」と死を悼んだ。

 ▼荒木田裕子・日本バレーボール協会強化事業本部長代理の話 妥協がなかった。いつも背筋だけでなく、気持ちまでぴんとしていて怖かった。2020年の東京五輪では男女でメダルを取ることが最大の恩返し。

 ▼寺山(旧姓宮本)恵美子さんの話 とにかく怖かった。「(スパイクをしっかり)打てない人には、トスは上げられない」と言われた。何くそという気持ちを持たせてくれた。

 ▼井戸川(旧姓谷田)絹子さんの話 大松監督が練習に来る前の30分間は、河西さんがレシーブ練習で私たちに打っていた。女性対女性で、負けてたまるかという火花が散った。助監督のようだった。

 ▼丸山(旧姓磯辺)サタさん(元日本代表選手)の話 高校からチームに入りたてのころ、「5人でやった方がまし、要らない」と言われて発奮した。厳しさとおちゃめなところの両面があった。お母さんのようだった。

 ▼神田(旧姓松村)好子さん(元日本代表選手)の話 「ここにパスを上げないと、私はトス上げないよ」と言われた。レシーブが最高に上手になれたのは、河西さんのおかげ。現役が終わってからも、私たちを引っ張ってくれた。

 ▼中島(旧姓半田)百合子さん(元日本代表選手)の話 何とも言えない空虚感がある。キャプテンが私たちの強さを引き出してくれたと思う。体と心で、選手一人一人の個性に立ち向かってくる感じだった。

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2013年12月9日のニュース