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【素顔の代表 山口蛍】一度はサッカーからドロップアウト…父は待った

[ 2014年5月7日 09:57 ]

山口のスクラップ写真の前で笑顔の父・憲一さん

 父がいたからこそ、幾多の試練を乗り越えることができた。MF山口蛍(23=C大阪)の父・憲一さん(46)はサッカーの手ほどきをしてくれた。そして小学4年生の頃に両親が離婚してからは男手一つで育ててくれた。山口の成長を支えてきた父との強い絆に迫った。

 転機が訪れたのは小学6年生の時だ。憲一さんの指導で技を磨いた山口は、不動のトップ下に君臨。同級生で日系ブラジル人のFWとともにチームの二枚看板に成長していた。ある日、箕曲WESTは奈良で行われた招待試合で京都サンガのジュニアチームと対戦した。田舎町のクラブチームにとって、Jリーグの下部組織は雲の上の存在。試合ができるだけでも貴重だったが、箕曲WESTは大金星を挙げた。

 その主役が山口だった。トップ下でチャンスを演出。自らFKで2ゴールを決めた。そのうちの1本は超ロングシュート。小学生とは思えないパワーと技術で度肝を抜いた。試合後、京都の監督が憲一さんのもとに歩み寄ると「(京都の)ジュニアユースのセレクションを受けさせてみませんか」と誘いをかけた。

 中学進学後は兄・岬さんが所属する箕曲WESTのジュニアユースへ進む予定だったが「どうせならほかのチームも受けたらどうや」と憲一さんは勧めた。同じ関西のG大阪、C大阪のセレクションも受けることになり、最初に合格したのがC大阪だった。名張市の自宅から大阪市内の練習場まで片道約2時間。それでも、費用が免除される特待生扱いを受けられることもあり、入団を決意した。プロへの道が一気に開けた。

 ただ、順風満帆とはいかなかった。高校進学と同時にU―15(ジュニアユース)からU―18(ユース)に昇格する際、一度はドロップアウトした。自宅から通っていた中学時代は、自由な時間がほとんどなかった。その反動と反抗期が重なった。友人と遊ぶことに夢中になり、髪を金色に染め、約2カ月間にわたって練習を休んだ。

 道を踏み外しそうになった息子に対して、父は翻意するのを辛抱強く待った。「どうすんねん」と問いかけても「(チームに)“辞める”って言っといて」と答えるだけだったが、諦めなかった。最後は岬さんを交え3人で話し合った。ようやく「戻りたい」とつぶやいた息子の目を見ながら、憲一さんは言った。

 「明日から練習に行け。みんな喜んでくれるだろうから。これからはプレーでチームメートに恩返しをしろよ」。ピッチを縦横無尽に駆け回り、味方のミスもカバーする。山口の献身的な姿勢は父の言葉から生まれたのかもしれない。

 小学生時代、憲一さんが作ってくれる弁当には必ず卵焼きが入っていた。山口はそれが大好きだった。現在では実家に帰るのは年1回程度で、父の手料理を食べる機会はほとんどない。その代わり、一人暮らしの台所へと立つと、憲一さんと同じ味付けの卵焼きを作ってご飯に添える。今は離れていても、父と子は強い絆で結ばれている。

 ◆山口 蛍(やまぐち・ほたる)1990年(平2)10月6日、三重県名張市生まれの23歳。箕曲WESTからC大阪U―15に入団し、同U―18を経て09年にトップチーム昇格。U―17から各年代の日本代表に選出。12年ロンドン五輪は全6試合にフル出場し4強入りに貢献。13年7月21日の東アジア杯中国戦で国際Aマッチデビュー。国際Aマッチ通算9試合0点。1メートル73、72キロ。利き足は右。

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