笠井信輔アナ がん寛解伝える理由「経験したからこその人生にしないと。発信する使命感がある」

[ 2023年7月16日 07:20 ]

笑顔を見せる笠井信輔(撮影・尾崎 有希)
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 【俺の顔】柔和な笑顔と心地よい声でおなじみのフリーアナウンサー笠井信輔(60)。悪性リンパ腫という大病を乗り越え、マルチに活躍している。「がんを経験したからこその人生にしないといけない」。自分にしかしゃべれないことを伝える使命感でいっぱいだ。(望月 清香)

 「よろしくお願いします!」。午前中の会議室に快活な声が響く。ぱっちりした二重と黒くふさふさした髪は還暦に見えない。「抗がん剤治療で一度ツルツルになったけど、また生えてきたんです」。ユーモアを交えながら歯切れよく話す姿は、長年お茶の間で親しまれた“朝の顔”だ。

 子供の頃から人前でしゃべるのが大好きだった。高校では放送委員会に所属。昼の校内放送や文化祭の司会を務めた。ほかのクラスから生徒が殺到して教室から人があふれるほど人気者だった。1浪して早稲田大学に入学。1987年にフジテレビに入社する。

 代表番組となったのは99年の放送開始時から20年間出演した朝の情報番組「とくダネ!」だ。総合司会の小倉智昭氏(76)とのコンビで人気を集めた。しかし長寿番組にテコ入れは付きもの。番組開始から15年間は持ち時間が30分ほどあったが気付けば1分ほどにまで減り原稿チェックなどの裏方業務が多くなった。「自分は必要とされていない。もっとしゃべりたい」。19年、自分の居場所を求めて56歳の時に退社した。

 そのわずか2カ月後、ステージ4の悪性リンパ腫に襲われた。「清水の舞台から飛び降りたと思ったら地面がなかった。どうしてこれから羽ばたこうとしている人の羽をもぎ取るのかと思った」。何度も自らの運命を恨んだ。

 すぐに壮絶な闘病生活が始まった。耐え難い痛みの中で、笠井はSNSで毎日闘病の様子を発信した。その背景には小倉氏の存在がある。小倉氏は16年に膀胱(ぼうこう)がんであることを公表。18年には膀胱全摘出手術を行い、その経験を自らの口で赤裸々に語った。「“励まされた”とか“参考になった”という声が番組にたくさん来た」。キャスターとしての生きざまを学んだ。

 SNSで発信した理由はそれだけではない。当時は死ぬことを覚悟しており「自分が死んだら、書き込んだ情報の価値が上がる」と考えた。死を意識した上で始めたSNSだが、生きることへの活力にもなった。300人だったインスタグラムのフォロワーは30万人に増加。がん患者やその家族からたくさんの励ましの声が届いた。「自分は仲間たちに失望を与えるために発信してるのではない。絶対に乗り越えなければいけない」。目の色を変えて、病魔と闘った。20年6月にがんの完全寛解を発表した。

 「引き算の縁と足し算の縁」。これは闘病中の支えになった言葉だ。笠井はフジテレビ時代に東日本大震災を取材した。そこで目にしたのは、未曽有の大災害に遭いながらも歯を食いしばって前を向く人々の姿だった。「人間は最低最悪の状況での出会いを、自分の力づけにすることができる。マイナスの思考からプラスの思考に転ずる力を持っているということを、被災者の皆さんに教わりました」。がんになったことで失ったものを引き算のように数えるのではなく、がんになったからこそ気づいたことに目を向けた。

 退院後に民間団体「#病室WiFi協議会」を仲間と設立。新型コロナウイルスの影響でお見舞いが制限されている中で入院した経験を基に、入院患者に無料WiFiを開放してほしいと訴えている。全国各地で精力的に講演活動も行っている。

 時にがん患者の遺族から厳しい声を受けることもある。それでも笠井は「報道の人間としてがんを乗り越えたことをライフワークにしないといけない。発信する使命感がある」と言い切る。そのまなざしは力強い。自分だけの生き方を見つけた男の横顔は、朝日のようにすがすがしかった。

 ◇笠井 信輔(かさい・しんすけ)1963年(昭38)4月12日生まれ、東京都出身の60歳。87年に早大を卒業し、フジテレビに入社。19年に退社。趣味は映画観賞で、新作映画を年間130本以上スクリーンで見る。私生活では90年に元テレビ東京アナウンサーの茅原ますみさん(59)と結婚。秋に著書「がんがつなぐ足し算の縁」を出版予定。血液型A。

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