【内田雅也の広角追球】村山実監督を支えた町工場のつえ 22日命日、他界から四半世紀 明かされる秘話

[ 2023年8月22日 08:00 ]

藤井金属化工が阪神・村山実監督につくった特製のつえ。携帯できるよう折りたたみ式になっている
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 その日のことはよく覚えている。1987(昭和62)年10月15日。村山実さんの徹底マークを命じられた。

 阪神が吉田義男監督を解任したのが12日。14日、阪神は岡崎義人球団社長が村山さんに電話を入れ、監督就任要請を行っていた。就任に前向きだったが、まだ発表にはなっていなかった。

 当時は近鉄担当。入社3年目、駆け出しで村山さんのマークを命じられた。村山さんは朝、車で芦屋の自宅を出発、大阪市内で自身が現役引退後所属していたSSKなどスポーツ用品メーカーを回った。「あいさつ回りをしてるだけや。阪神とは関係ないぞ。夕方には家に帰るから」

 「もう少しだけ」と断って、タクシーで後を追いかけた。立ち寄った先が大阪・野田の町工場だった。

 「藤井金属化工」

 と看板がかかっていたのをメモした。30分ほどして出てきた村山さんは「これで終わりや」と芦屋の自宅に帰っていった。デスクに連絡し、マークを外した。それだけの話だった。

 あれから36年。「藤井金属化工にはすごいお宝がある」との情報を聞き、取材に出向いた。1955(昭和30)年オールスター出場全選手のサイン入りバットや、56年日米野球での全日本チームの寄せ書きなど、貴重な品々に見入った。

 それ以上に驚いたのが社長の藤井宏康さん(64)の話だった。「村山実さんが監督になる前に来られました。まだ正式発表の前でした」。まさにあの日、87年10月15日と一致する。

 村山さんは「内々に頼みがある」と言った。「つえを作ってほしい」という願いだった。股関節を痛め「普通には歩くのもつらい」。ただし「人には見られたくない。カバンに入れて持ち運べるように、折りたたみ式にしてくれないか」。

 父・宏一さんはこの願いを引き受けた。数多くの金属製品を手がけてきた工場である。試作を繰り返し、四つ折りにできる青い色のつえを2本作った。1本を村山さんに渡した。残る1本は会社で保存。今回、そのつえを見せてもらった。

 監督となった村山さんは確かに足が悪かった。それでも自ら「少年隊」と名づけた和田豊、大野久、中野佐資ら若手育成のため、早出練習で打撃投手を務めていた。足を引きずってはいたが、つえをついていたのは見たことがない。「ミスター・タイガース」として、ファンに見られる姿を意識していたのだろう。

 藤井金属化工は1930(昭和5)年3月、祖父・森男さんが家庭金物など金属製品の製造会社として創業した。森男さんは全日本軟式野球連盟会長を務めるなど野球界に通じていた。

 1972(昭和47)年から金属バット製造にも乗り出した。前年71年2月、プロ野球選手に試し打ちしてもらい、形や厚み、反発力などの助言をもらった。親交のあった当時阪神監督兼投手の村山さんが12球団に協力を要請してくれたのだった。

 村山さんは引退後、スポーツ用品販売会社「リージェント・ファーイースト」を設立。代表を務めた。交流は続いた。

 藤井社長は1995年の阪神淡路大震災で被災した当時を思い出す。「自宅マンションは街灯が串刺しになっていました。避難所の小学校校庭に車を駐めて寝泊まりしていました」。藤井さんたちはガソリンや救援物資を運んだ。

 その後、直腸がんを患い、1998年に他界した。61歳だった。

 22日は命日。あれから25年、四半世紀を迎えた。藤井社長は「今年はタイガースが好調で、村山さんも天国で喜んでいると思いますよ」としのんだ。 (編集委員)

 ◆内田 雅也(うちた・まさや)1963(昭和38)年2月、和歌山市生まれ。桐蔭高―慶大卒、85年入社。近鉄担当時代の87年、初めて村山実氏と対面した。翌88年1月、阪神担当。以後30数年、阪神取材を続ける。紙面での阪神コラム『内田雅也の追球』は17年目に入っている。

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