【内田雅也の追球】「カフー」を待つ喜び

[ 2020年2月1日 08:00 ]

阪神の宿舎前に広がる残波ビーチ
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 「カフー」は琉球のことばで「果報」、幸せや良い知らせといった意味だそうだ。ここ数年、沖縄でのキャンプ中、定宿にしているペンションの近くにも、その名を冠したリゾート施設がある。

 小説『カフーを待ちわびて』(宝島社文庫)は原田マハのデビュー作で第1回日本ラブストーリー大賞を受けた。沖縄の小さな島で雑貨店を営む明青(あきお)のもとに1通の手紙が届く。<絵馬の言葉が本当なら、私をあなたのお嫁さんにしてください>。差出人には幸(さち)とある。数カ月前、旅先・北陸の神社で絵馬に<嫁に来ないか>と書いていた。半ば冗談のつもりだった。

 明青は幸を待つようになる。<待ちわびる。それは少し痛みを伴う、甘美な行為だった>。

 そんな花嫁を待つような心境ではないだろうか。31日、キャンプ地・沖縄に入った阪神監督・矢野燿大は宿舎での全体ミーティングを終え「早く始まってほしい。わくわくするような気持ち」と明かした。

 この「わくわく感」は就任1年目だった昨年のキャンプイン当時も同じように話していた。「圧倒的に楽しみと言うか、楽しみでしかない」とも語っていた。

 何が楽しみなのか。なぜ楽しみなのか。それは矢野が「待つ」という行為に信頼の裏付けがあるからではないか。信頼が書き過ぎならば、期待と書き換えてもいい。

 昨年から長年、投打の中心選手だったランディ・メッセンジャーや鳥谷敬が抜けた。ラファエル・ドリスもいない。5人の新外国人選手の力量も未知数である。不安な要素はいくらもある。

 小説でも幸を待つ明青は<ふと怖くなった>。結局、幸は来ないかもしれない。そんな誰かを待ち続けるのは<途方もない苦痛>でしかない。

 哲学者(臨床哲学)・鷲田清一は『「待つ」ということ』(角川選書)で<信頼の最後のひとかけらがなければ、きっと待つことすらできない>と書いている。<待つ>は奥が深く、今キャンプ中もまた書いてみたい。

 とにかく矢野は、明青が抱いた恐怖や苦痛は感じていない。必ず選手は成長し、新戦力として目の前にやって来る。期待以上の信頼か。だから待つことが楽しいのだ。

 小説で夕食後、おばあがいつも唱える。「カフー、アラシミソーリ」(幸せでありますように)。矢野とともに、信じてみたい。=敬称略=(編集委員)

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2020年2月1日のニュース