野球選手は「日常」へのヒーロー 西日本豪雨での公式戦中止について

[ 2018年7月10日 09:00 ]

9・11テロで、練習後に球場外で行われていた救援物資の品分けを手伝っていたメッツ(当時)の新庄氏
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 【内田雅也の広角追球】あの「9・11」、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロの時は米国ピッツバーグにいた。当時メッツにいた新庄剛志を追い、遠征先のホテルで朝、テレビのニュースを見ていた。突然、世界貿易センターに旅客機が突っ込む衝撃の映像が流れた。

 すぐさま、歩いてすぐのメッツ宿泊先ホテルに向かった。新庄は「ひどいよね……。本当に……」と声を絞り出した。大惨事に大リーグは公式戦を中断した。メッツは専用機でニューヨークに戻った。一般の商用機は全便欠航で、われわれ日本人報道陣はバスをチャーターし、8時間かけて帰った。

 メッツ本拠地のシェイスタジアムは救援物資の集積所、各地から駆けつけた消防士や警察官、医療スタッフが宿泊する基地となった。新庄や選手たちも練習後、ユニホーム姿で物資の積み卸しなど奉仕活動に携わった。

 がれきの中から生存者を救出するなど、消防士や警察官らは当時「ヒーロー」と呼ばれていた。監督ボビー・バレンタインは球場に寝泊まりし、そんなヒーローたちと夜遅くまで語り合った。

 公式戦は17日に再開。テロから10日後の21日、ニューヨークでも試合が行われた。シェイスタジアムでのブレーブス戦。新庄が次打者席近くで「まさか、あそこで打つ〜!?」と震えたマイク・ピアザの逆転2ランで勝った。「こんな試合……生まれて初めてかもしれない。一生忘れられない試合になった」

 バレンタインは静かに「これは、たかが野球の試合なんだ。生きるか死ぬかの問題じゃない」と言った。「試合前に悲しみが漂った球場が8回裏(ピアザ2ラン)に大きな喜びに包まれた。やはり、人びとはテロ以前の平穏な生活に結びつく何かを求めていたのだろう。野球がそれを提供したんだ」。野球の存在理由を示すかのようだった。

 野球に関する著書も多い米作家ロジャー・カーンは「野球場に来るとホッとする」と語っている。「野球場を“緑の教会”と書いた本もある。宗教体験とまでは言わないが、野球は神聖でかつ世俗的な日常体験である」

 平穏な生活、日常回帰への思いがあった。人びとにとって、野球が行われていることが平凡で普通の日々なのだ。

 豪雨に見舞われ、多くの犠牲者が出た西日本はいま、非常時にある。

 広島球団が8日、9日からの阪神3連戦(マツダ)の中止を申し出、日本野球機構(NPB)も受理したのは賢明な判断だった。交通網がマヒしていた。いや、何よりも人びとの思いをくめば野球はできない。8日、東京ドームでの巨人戦後、取材に応じた広島球団本部長・鈴木清明は「試合ができる状況ではない。災害なので試合を盛り上げていくような状況ではない」と説明した。

 阪神も広島と同じ思いだろう。兵庫県の被害も相当で、8日夕まで大雨警報が出ていたのだ。

 3日連続雨天中止の後、8日に甲子園で行われたDeNA戦の観衆は4万6千を超えた。関係者に満員御礼の大入り袋が配られた。実は甲子園が大入りとなるのは6月24日以来2週間ぶりだった。試合開催日でも悪天候で不入りが続いていた。久々に青空がのぞき、夕焼けが輝いていた。これが甲子園の日常なのだ。

 9日、阪神は甲子園で、広島はマツダスタジアムで練習を行った。3連戦が中止となったことで、両チームとも次の公式戦は16日までない。秋の9、10月に過密日程が懸念されるが、いまの状況を思えば、そんなことは大した問題ではないだろう。

 思えば、阪神淡路大震災(1995年)では選抜高校野球の開催是非を巡って、長く論議が続いた。東日本大震災(2011年)ではプロ野球は公式戦開幕を延期した。やはり野球はファンと、人びとと寄り添う「日常」のものでありたい。

 野球を愛する作家・重松清がプロ野球について<毎度おなじみの感覚が、いい。勝敗が日常の一部になる>と書いていた=『うちのパパが言うことには』(角川文庫)=。

 勝った、負けたと騒げる日々こそ恋しい。

 広島や阪神の監督・コーチや選手たちは、いやすべてのプロ野球人は心に留め置きたい。君たちは人びとの日常を取り戻すヒーローなのである。=敬称略=(編集委員)

 ◆内田 雅也(うちた・まさや) スポニチが開設していたニューヨーク支局には2001年3月から2004年4月までいた。大リーグ取材で新庄剛志、大家友和、小宮山悟、田口壮……ら、主に東海岸を担当した。全米各地を回ったのは貴重な経験となっている。1963年2月、和歌山市生まれ。桐蔭高(旧制和歌山中)、慶大卒。

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