ニッポンの野球を世界に発信しよう

[ 2016年10月5日 11:30 ]

東京五輪開幕と重なり、9面での扱いとなった日本シリーズ最終戦。1964年10月11日付スポニチ(東京本社発行版)。大阪本社発行版は1面トップが「南海日本一」、左肩で「東京五輪開く」だった
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 【内田雅也の広角追球】映画『地下鉄(メトロ)に乗って』(1994年)で、主人公のサラリーマンがタイムスリップした先は、幼いころ過ごした地下鉄丸ノ内線・新中野駅前だった。鍋屋横丁の電器店を通りがかると店頭の白黒テレビがナイター中継を映し出している。店先に群がった人びとが声をあげていた。

 「山内、頼んだぞ」

 「行けよ、山内」

 「行ったあ~」

 阪神・山内一弘(当時和弘)が南海(現ソフトバンク)・杉浦忠から本塁打を放ち、ダイヤモンドを回っている。大阪球場だ。「阪神、今年は日本一だよ」の声が飛んでいた。

 男が手にした新聞を見ると、1面に「東京オリンピックいよいよ開催」の大見出し、日付は「昭和39年(1964年)10月5日」とある。腕時計を見ると午後7時過ぎだった。

 調べてみると、テレビ中継は同年の阪神―南海日本シリーズ第4戦だった。1回表2死、3番・山内が杉浦から中堅左に先制ソロを放っている。映画では新聞も映像も本物が使われていた。

 街中には「東京オリンピックマーチ」が流れ、五輪マークをあしらったちょうちんが店先に下がっていた。五輪開幕前の熱気が伝わってくる。

 ただ実際、日本シリーズの方の熱気は低調だった。阪神―南海の対戦で、両球団の事務所がある梅田―難波を結んで「御堂筋シリーズ」と呼ばれた。ともに関西の人気球団だったが、観客動員は低調だった。

 7試合合計で有料入場者数は16万6738人(1試合平均2万3820人)。阪神は2年前62年も日本シリーズで東映(現日本ハム)と7試合戦い、入場者は22万1754人(同3万2679人)で、27%も落ち込んでいる。

 特に、東京五輪開会式と重なった10日の第7戦は1万5172人で日本シリーズ最終戦としては歴代最少だった。

 セ・パ両リーグや日本野球機構(NPB)も何とか10月10日まで全日程を終えようと開幕を3月20日と早めた。雨にたたられた阪神は8月に8度、9月に6度もダブルヘッダーをこなす強行日程だった。それでも9月末の台風で日本シリーズ開幕が2日遅れ、日本シリーズと五輪が重なってしまった。

 当時、阪神の1番・遊撃手だった吉田義男さん(83)は東京五輪開会式を覚えている。「あの日は甲子園でした。早稲田大の坂井青年(義則氏)が聖火台を駆け上がり、聖火が灯ったシーンを思い出します。テレビを観ていたのでしょう」

 五輪と重なった日本シリーズは史上初のナイター開催で午後7時開始。国立競技場で天皇陛下が五輪開会を宣言されたのが午後3時1分。恐らく阪神ナインは甲子園球場で練習の合間にテレビに見入っていたのだろう。

 五輪の前では日本シリーズもかすんでしまうのだ。この点で2020年の東京五輪期間中、プロ野球が公式戦を中断するのは正しい判断と言える。決議した7月11日のオーナー会議で議長の阪神・坂井信也オーナーが「国家的なイベント。野球界を挙げて全面協力する」と説明している。もちろん、この休止決議は8月の国際オリンピック委員会(IOC)が野球を追加競技に決定する前で、野球界として「五輪への協力姿勢」をアピールする必要もあった。

 前回東京五輪にはなかった野球が次回東京五輪では開かれる。ならば、野球の素晴らしさを世界に発信する場にしなくてはならない。開催国であり、野球先進国の日本が背負う使命は大きい。

 スタンドに空席が目立った64年の日本シリーズだが、試合内容は濃かった。サヨナラあり、逆転ありで、4勝3敗の接戦だった。吉田さんは「激しいシリーズでした」と振り返る。そのプロ野球が今度は五輪の舞台で力と技、そして心を見せるように願っている。(編集委員)

 ◆内田 雅也(うちた・まさや)1963年2月、和歌山市生まれ。小学校卒業文集『21世紀のぼくたち』で「野球の記者をしている」と書いた。桐蔭高(旧制和歌山中)時代は怪腕。慶大卒。85年入社以来、野球担当一筋。大阪紙面のコラム『内田雅也の追球』は10年目。昨年12月、高校野球100年を記念した第1回大会再現で念願の甲子園登板を果たした。

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