【高校野球100年】戦意高揚…「選士」が白球追った「幻の甲子園」

[ 2015年6月16日 11:00 ]

甲子園記念館に展示される徳島商・幻の甲子園優勝記念ボール

高校野球100年~歴史と名シーン~

 100年を迎える夏の高校野球で「幻の甲子園」と呼ばれる大会が存在する。太平洋戦争中の1942年に甲子園で開催された「全国中等学校体育大会野球大会」は、戦意を高めることを目的に文部省と、その外郭団体である大日本学徒体育振興会の主催で開催された。「大会の回数継承」「優勝旗授与」も認められなかった大会は決勝で徳島商が平安中(現龍谷大平安)を下して優勝している。

 1941年の第27回大会は全国各地で予選が行われていたが、戦局の深刻化に伴い、開幕1カ月前の7月13日に中止が決定した。46年夏に再開されるまで5年間の空白期間があるなかで「幻の甲子園」は42年夏に開催された。

 第2次世界大戦さなかで、戦意を高めることを目的とした国の主導で行われた大会だったため記録には残っていない。各地の予選を勝ち抜いた16校の選手は「選士」と呼ばれ、続行不能でない限り交代を認められず、投球をよけることも許されなかった。空襲警報と誤認しないようサイレンは禁止され、進軍ラッパが吹かれた。ユニホームのロゴはローマ字が禁止され、甲子園のスコアボードには「勝って兜(かぶと)の緒を締めよ」「戦ひ抜かう大東亜戦」の横断幕が掲げられた。軍事色の強い大会だったが、徳島商―平安中の決勝戦には4万人の観衆が詰めかけた。

 徳島商の「7番・一塁」として優勝に貢献した梅本安則さん(88)は「一国の存亡の時に、甲子園で心置きなくプレーできたことは奇跡とも言える」と73年前の夏をしみじみと振り返る。決勝戦は1点を追う7回に5点を挙げて逆転も、同点に追いつかれて延長戦に突入。11回2死満塁では打席に向かう林真一に稲原幸雄監督が「球が投手の手を離れたら目をつぶって立っていろ」と待球作戦を指示。全6球、一度も振ることなく押し出し四球で決勝点を奪って栄冠に輝いた。

 だが、優勝旗は授与されず、賞状も45年7月4日未明の徳島大空襲で焼失した。77年、徳島県を訪れた海部俊樹文部大臣(当時)に、稲原元監督が「42年夏の優勝を記念するものが欲しい」と訴え、賞状と盾があらためて同校に授与された。2012年10月には、梅本さんら優勝メンバー33期生の同窓会「燦々(さんさん)会」によって「徳島の高校野球史上及び甲子園球場史に残らないまぼろしの全国優勝」と刻まれた記念碑が同校の正門脇に建てられている。

 「私たちの時代は特別だった。そういう時代もあったと思ってもらい、平和な時代に野球ができることの幸せを感じながら、思い切り精進してほしい」と梅本さん。

 徳島商はその後、47年センバツで優勝。だが、夏は58年・板東英二を擁して準優勝したのが最高となっている。

 ▽決勝 (1942年8月29日)
平安中
 100 001 040 01─7
 010 000 500 02X─8
徳島商
 (平)富樫、小俣、富樫―原田
 (徳)加藤―笹川

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