藤沢和師の後悔「60点の調教師だった」、厩舎構え34年 今週末で引退の師自身が語り尽くした

[ 2022年2月22日 05:30 ]

さらば伯楽 挫折と栄光、未来への提言(上)

厩舎で笑みを浮かべる藤沢和師(撮影・西川祐介)

 今週末をもって7人の調教師が定年引退を迎える。日本競馬の常識、歴史を根本から塗り替えた藤沢和雄師(70)も、その1人だ。美浦に厩舎を構えて34年。闘いと挫折、栄光、そして後輩への提言を師自身がスポニチ本紙読者のために語り尽くした。2回にわたってお送りする。

 年は馬の走り。歳月は馬が駆け抜けていくように早く過ぎ去るとの意味です。美浦トレセンに厩舎を構えて34年。私が手掛けたサラブレッドたちみたいなスピードで、あっという間に調教師生活のゴールを迎えることになりました。

 「調教師としての仕事ぶりを自己採点すると及第点がつけられるか」。付き合いの長い古株の記者にこんな意地の悪い質問をされ、走馬灯のように駆け巡った34年間の出来事を振り返れば…。星の数ほど勝ったんだ、100点満点で文句あるのか!と胸を張りたいところですが、手柄を立てたのは私じゃない。G1トレーナーなんておだててもらえたのも馬が凄かったから。人間はひとつも凄くない。名馬には厩舎も騎手も血統さえも関係ない。持って生まれた才能が全てを超越しているのが名馬。以前、マイクを向けられて、そんなことを口走った記憶があります。馬を扱う人間がうぬぼれ屋になってはいけないと自戒を込めて言いたかった。勝たせてくれた馬たちが偉い。感謝しかありません。

 自身の仕事ぶりに点数をつけるなら60点。及第点にぎりぎり届くか届かないかの自己採点で、私の厩舎の馬たちに許してもらえればと思う。34年間にはもっと走れたんじゃないかと思う馬がたくさんいました。才能を持ちながら大成しないで終わった馬も多かった。「失敗したんじゃないか!藤沢」。成功例よりも悔いを残したことの方が圧倒的に多い。クエストフォベスト(注1)とか、ヤマトダマシイ(注2)とか故障した馬はもちろん、故障しなかった馬にしても使い出しが悪かったんじゃないか…などと今でも自問自答しています。

 馬を壊してはいけない。これも自戒の念を込めて繰り返し口にしてきた言葉です。もっと走れ!と激励しすぎるから、皮肉にもいい馬ほど早くつぶれてしまう。気持ちも体も駄目になる。厩舎初のダービー出走となった89年のロンドンボーイ(注3)。開業2年目に訪れたチャンスに「勝てるかも」と色めき立ったが、大敗を喫しました。青葉賞(2着)後、体調が下降していたのに、ダービーに出走できる喜びに目が曇って体調を見極められなかった。競走生活を全うできず、その年の夏でリタイア。クラシックは競走生活のゴールではない。これも自責の念から口にした言葉です。

 当時は外国産馬にクラシック出走資格がなかった時代。内国産馬を預かりたくても、国内で自由に買えるサラブレッドのセリは少ない。庭先取引でも若い調教師には良質な内国産馬を売ってもらえない。その結果、シンコウラブリイやタイキブリザード、タイキシャトルなど外国産馬を増やした私の厩舎はクラシックから遠ざかりました。次のダービー出走は外国産馬の出走が可能になった02年。米国産のシンボリクリスエス(2着)など4頭を送り出した。「先生、この馬は秋に良くなりますよ」。武豊君がシンボリクリスエスで青葉賞を勝った時、私にこう告げました。これほど良くても秋なのか、春じゃないのか…。ショックを受けましたが、その年の秋になったら武君の言葉通りに良くなって天皇賞を勝てた。次の年にはもっと良くなっていた。武君の想像以上に…。翌03年のダービーで2着だったゼンノロブロイもそうですが、若い頃には無理できなかったり、体を持て余していた馬が古馬になって大成する例は多い。逆にせかしたり、無理させるとクラシックが競走生活のゴールになってしまう。ロンドンボーイの教訓です。

 馬を大事に扱えば、木下順二の「夕鶴」みたいにいつか恩返ししてくれる。5歳秋に天皇賞を優勝したスピルバーグや、9歳にして初めて重賞(キーンランドC)を勝ったセン馬のエポワス。5歳でデビューしたレディブロンド(注4)は重賞を勝てずに引退しましたが、繁殖入り後に馬の恩返しをしてくれました。ダービーと天皇賞・秋を優勝したレイデオロはレディブロンドの孫です。血統書の中にタイキシャトルやシンボリクリスエスなど手掛けた馬が増えたのは私の数少ない誇りのひとつです。少しだけうぬぼれさせてもらえば、大事に扱ってきたのが良かったのかなと思う。

 「生まれ変わっても調教師になりたいか」。古株の記者にこんな質問もされました。もう一度やらせてもらえるなら、もっといい調教師になれると答えました。70点とはいわず80点、90点…。自己採点で及第点を楽々と取れるような…。「年は馬の走り」。ホースマンとしてやり残したことはたくさんあります。後ろ髪を引かれる思いですが、時は止まってくれません。サラブレッドのようなスピードで今週末、34年間に及んだ調教師生活にピリオドを打ちます。(JRA調教師)

 ◇藤沢 和雄(ふじさわ・かずお)1951年(昭26)9月22日生まれ、北海道苫小牧市出身の70歳。実家は78年秋の天皇賞馬テンメイなどを生産した藤沢牧場。73年から4年間、英国ブリチャード・ゴードン厩舎で厩務員。77年帰国。菊池一雄、野平祐二厩舎の調教助手を務めた後、87年調教師免許取得。88年、美浦トレセンで厩舎開業。JRAリーディング(中央競馬年間勝利数1位)12度。JRA通算1568勝(うち重賞126勝、G1・34勝)。趣味はゴルフ、ハトの生産、飼育など。

 注1 父トウショウボーイ、母ダイアナソロン。デビュー2連勝もトモを骨折して大成できず。
 注2 父シンボリルドルフ。新馬戦を3馬身差圧勝。クラシックの有力候補と期待されたが続くレースで故障、予後不良に。
 注3 父ホクトボーイ。ダービーは柴田善を背に24頭立て22着。
 注4 デビュー戦は1000万(現2勝クラス)特別。5番人気だったが鼻差V。デビュー5連勝でスプリンターズSに挑み4着。これが引退戦に。半弟はディープインパクト。

 《藤沢和師、名勝負数え歌 93年マイルCS=シンコウラブリイ》ここで引退とレース4日前に決まった一戦は激しい雨で不良馬場。名手・岡部のタクトで外国産牝馬初、厩舎のG1初制覇を決めた。開業6年目、当時42歳の藤沢和師。「馬なり調教で勝てるか!」「G1をなめるな!」。英国仕込みの調教が非難されながらこの年初めて全国リーディング首位へ。藤沢和時代の到来を告げた。

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