【売野雅勇 我が道16】「夏のクラクション」と京平先生 教えていただいた作詞家の心得4カ条

[ 2025年8月17日 07:00 ]

87年に筒美京平先生(右)とケニアを旅行した時のスナップ
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 シティーポップの先駆け的な存在として今も親しまれている稲垣潤一「夏のクラクション」。僕が書いたサビの歌詞、♪夏のうぉうぉクラクション――にメロディーをつけたのは当然、筒美京平先生のアイデアですが、それが独特の節回しを生ませたこうした技巧には感動しました。ヒット曲作りに人生を捧(ささ)げた人の覚悟と閃(ひらめ)きを感じます。

 この曲でコンビを組んだ京平先生とは、1983年2月に初めてお会いしました。僕は30代の初め。40代の京平先生はすでに大御所でエレガントな雰囲気を漂わせた未知の別世界の人でした。

 京平先生と100作品ほどの楽曲を制作していく中で、作詞家として大切なことを教わりました。第1章は「本、映画、演劇、読書、そして食べ物などさまざまな経験をしなさい」ということ。おしゃれも大事!と行きつけを教えてくれました。旅も大事!とアフリカのケニアなどプライベートでの旅行もご一緒しました。

 第2章は「その経験や記憶が詞を書く時の血肉となる」。まずタイトルを決めた僕は映画「アメリカン・グラフィティ」から歌詞の世界を広げていきました。

 田舎町で育った主人公の少年は、大学進学のため家族らと別れ飛行機に乗り込む。期待と不安が交差する中、窓から走り去る白いスポーツカーを目にして喪失を感じる――。そのラストシーンから「無垢(むく)なる夏の終わり」「遠ざかるクラクションの響き」などを連想。歌詞を仕上げていきました。

 稲垣さんは当時82年にデビューしたばかりの29歳。この曲のレコーディングの時に初めて会いました。彼が独特の甘く透き通った声で歌い出すと目の前に海が広がっていきました。「流石(さすが)だなぁ」と感激している横で、第3章「ボーカルレコーディング編」の講義が始まりました。それはスタジオで作詞家がやるべきことの一つ。京平先生は「作詞家として言いたいことや注文があったら、その場で何でも言うこと」と僕にささやいたのです。

 その結果、歌ってはやり直しの繰り返しとなり稲垣さんは「千本ノック」と呼んでましたが、ディレクターの重実博さんによれば、実際に100回近く歌ったそうです。

 「夏の…」の歌詞を書いた翌日、僕はチェッカーズ「涙のリクエスト」を書き始めます。皆さんにとっては全く別物の2曲だと思いますが、僕にとっては同じDNAを持つ別々の惑星で生まれた双生児と言えます。

 一つの作品を書いたことで、次の新しい作品が生まれる。これは京平先生の教えの第4章「数を書かなければうまくならない」にあたります。そんな敬愛する京平先生から「売野くんの詞は音楽的だから、すぐにメロディーができた」と褒められた時の喜びは今も忘れられません。

 ◇売野 雅勇(うりの・まさお)1951年(昭26)2月22日生まれ、栃木県足利市出身の74歳。企業のコピーライターなどを経て、81年作詞家に。中森明菜「少女A」、チェッカーズ「涙のリクエスト」、郷ひろみ「2億4千万の瞳」などのヒット曲を生み出した。これまでに1500曲以上の歌詞を制作。2026年に活動45年の節目を迎える。

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