長嶋茂雄さんの伝説・名言・迷言まとめ|永久に不滅のエピソード&語録集

「ミスタープロ野球」長嶋茂雄さん。「永久に不滅です」に象徴される名言はもちろん、思わず笑ってしまう迷言や数々の型破りなエピソードは、今もなお語り継がれている。その一部をお届けする。

長嶋茂雄のプロフィールはこちら

伝説のエピソード集

エピソード 時期 内容
ベース踏み忘れで大記録逃す 1958年9月19日 ルーキーイヤーの1958年9月19日の広島戦(後楽園)。左中間に28号ソロを放つも、一塁ベースを踏み忘れてダイヤモンドを一周。相手のアピールにより、本塁打は取り消しとなり、記録は「投ゴロ」に。この年、打率・305、29本塁打、37盗塁で文句なしの新人王に輝いたが、ベース踏み忘れがなければトリプルスリーだった。
敵将の助言でスランプ脱出 1961年夏 不調にあえいだ1961年夏。長嶋さんはその晩の試合で対戦する、当時国鉄の監督だった砂押邦信氏の自宅を訪ねた。砂押氏は立大時代の監督。月明かりの下、石灰をまぶしたボールで守備練習を課すなど、猛練習で長嶋さんを鍛え上げた人物だ。その師に打撃フォームのチェックを願い出た。その数時間後の試合で本塁打を放ち「恩返し」を果たした。
バットを持たず打席 1968年5月11日/1971年6月17日 1968年5月11日の中日戦。2死二塁の場面で相手ベンチが敬遠策をとった際、カウント2―0になるとバットを持たずに打席に立って抗議した。「敬遠は嫌いでした。お客さんは敬遠を見に来ているんじゃない、バットを振るのを見に来ているんだ」。1971年6月17日の広島戦でも同様に、3ボールの時点でバットを放り投げ、素手で構えた。【実際の写真はこちら】
荷物を忘れると大活躍!? 1967年10月 1967年、敵地での阪急との日本シリーズ第1戦で、野球用具一式の入ったバッグを旅館に忘れて球場入り。関係者の尽力で何とか用具が間に合うと、その試合で5打数3安打3打点の大活躍。3勝2敗で迎えた第6戦では、旅館のスリッパを履いて球場入り。その試合でも1発を含む5打数3安打3打点で日本一を決めた。やはり並の精神力の持ち主ではない。
一茂置き忘れ事件 1973年 1973年のある試合で、自分のプレーを見せようと息子の一茂氏を後楽園球場に連れて行った。一茂氏をスタンドに座らせて、自身は試合に没頭。帰宅後、妻に「一茂は?」と聞かれて、やっと思い出した。息子を球場に置き忘れてきたことを。

名言・名言集

言葉 時期 エピソード・内容
【現役時代】
いい薬 1958年4月5日 国鉄との開幕戦に「3番・三塁」でデビュー。金田に4打席連続三振を喫し「いい薬になりました。今度金田さんと対戦する時は、必ず打ってお返しをしてみせます」。
泳いでいるよう 1958年4月10日 大洋戦でプロ初アーチ。「どうも考えてみると学生時代の方が振りは鋭かった気がする。今のバッティングフォームは泳いでいるようだ」。
踏んだつもり 1958年9月19日 広島戦で新人記録となる28号を放つも、一塁ベースを踏み忘れて取り消し。「僕は踏んだつもりでいるが、塁審があれだけの自信を持って言うのだから、僕のミスなのでしょう」。
よく振れた 1959年6月25日 天覧試合の阪神戦で2本塁打。9回に村山からサヨナラアーチを決め「自分でもバットがよく振れたと思った」。
こっちの子供は英語がうまい 1961年春 キャンプで米国を訪れ、ロサンゼルス市内で子供たちが英語を話しているのを見ての発言。その他に「外車がやたら多い」。
涙こらえて 1965年11月5日 南海との日本シリーズを4勝1敗で制して日本一。「俺にとってペナントレースが悪かったから、この感激はなおさらだ。グラウンドを一周していて、泣きたいのをこらえるのにやっとだった」。1965年から巨人のV9がスタート。
勝ちたかった 1971年5月25日 ヤクルト戦で通算2000本安打。「初安打と今日のヒットはきっと生涯の思い出に残るでしょう。ただ勝ちゲームで飾りたかったなあ」。
峠がきた 1974年10月12日 中日のリーグ優勝でV10達成ならず、現役引退を表明。「肉体的にも峠がきた。今年ほど老いを感じたことはなかった。17年間の現役生活から去ることについては13日の最終戦後、ファンの皆さんの前ではっきり表明したい。17年間自分でも本当によくやったと思う」。
永久に不滅です 1974年10月14日 ダブルヘッダーの中日戦が引退試合となり、試合後にスピーチ。「私は今日引退をいたしますが、わが巨人軍は永久に不滅です」の名言が誕生。【引退試合の写真はこちら】
【監督時代】
心機一転 1974年11月21日 監督就任を発表。現役時代の背番号3が永久欠番となり「3番はファンに愛されたが、新しい仕事に就くにあたって心機一転、けじめをつけたい来季から90番をつける」。
洋服初めてか? 1975年3月3日 巨人に高卒で、ドラフト1位で入団した定岡正二に春季キャンプで「今度詰め襟から洋服着るんだな。初めてか?洋服着るの。うれしいか?洋服着て」。
失敗は成功のマザー 1977年開幕前 1976年、前年75年の最下位から奇跡のリーグ優勝。その翌年の開幕を控えての抱負。「失敗を恐れてはいかん。失敗は成功のマザーです」。
もう一人の長嶋 1980年夏 育成について聞かれ「やっぱりもう一人の長嶋をつくりたい。二世は何人も出たけれど本物はまだだからね」。
グラウンド育ち 1980年10月21日 3位に終わり監督解任会見。フロント入りの要請を辞退したことについて「私はグラウンドで育った人間だし、フロントというのは適性からして不向きだと判断したからです」。
皆兄弟なのか? 1982年12月 オーストラリアで開催した野球教室。「AKAI」というチームに所属する少年に「君も赤井くんか。他にも何人かいたが、皆兄弟なの?」とユニホームを見て質問。
ご縁があれば 1992年10月12日 2度目の監督就任。ドラフト1位候補の星稜・松井秀喜について「魅力を感じています。しばらくぶりに打者として大成する能力を持っていると心打つものを感じました。ご縁があれば育てたい。指導したいと思っています」。
晩秋に大笑いしよう 1993年1月31日 春季宮崎キャンプ初日を前に「球界の盟主は西武と言わざるを得ない。その西武打倒のために再度泣くことは恥ではない。練習で泣いて、試合で笑って、晩秋には大笑いしようじゃないか」と訓示。
もっとオーロラを 1993~94年頃 若手時代の松井秀喜に対して「松井君にはもっとオーロラを出してほしい」と注文。叱責(しっせき)の意味も込めたが、「オーラ」との勘違いで笑いを誘った。
勝つ!勝つ!勝つ! 1994年10月8日 伝説の「10・8」決戦の直前に「俺たちは勝つ!いいか、もう1回言うぞ。俺たちは勝つ!勝つ!」。その後、2007年2月16日の宮崎キャンプ視察、同3月7日の燦燦会の席でも叫んだ。
初めての還暦 1996年2月20日 60歳の誕生日を迎え、赤いちゃんちゃんこを着用。少し照れながら「初めての還暦を迎えまして…」の迷言。
メークドラマ 1996年7月6日 首位・広島に11・5差をつけられるも「プロ野球も何があるか分かりませんよ。松井があと20本打てば、ミラクルが起きますよ。2年越しのメークドラマです」。逆転優勝して流行語に。【胴上げ写真はこちら】
サカナへんにブルー 1997年頃 福井県鯖江市を知っているか、と報道陣に問われ、「鯖江?知ってますよ。(鯖という漢字は)サカナへんにブルーでしたよね」と回答。
脱ぎづらくなって… 2000年2月12日 26年ぶりに背番号3を着用した春季宮崎キャンプで、ノック間際にジャンパーを脱ぎ捨て初披露。「これほどまで話題になるとは思っていなかった。序盤で思い切って脱いでやろうと思っていたけど、脱ぎづらくなって…」。5万5000人のファンは歓喜。
有終の美? 2000年10月 王貞治監督が率いるダイエー(現ソフトバンク)との日本シリーズが決定。「20世紀末のプロ野球界においてON対決と言われてきましたが、今ここに決定した瞬間、野球人としての有終の美を一つ飾ってみようと…。また気持ちを新たにしました」。
21世紀につなげていけると確信 2000年10月 20世紀最後の日本シリーズで4勝2敗でダイエーを下し「世紀末、この選手権を制したことは巨人にとっても、プロ野球界全体にとっても21世紀へいい意味でつなげていけると確信しています」。
野球とは人生そのもの 2001年9月28日 都内ホテルで巨人監督の勇退と、終身名誉監督就任会見。「私にとって野球とは、人生そのものだというひと言に尽きる」。
【評論家時代】
ヘイ、カール! 1991年9月 評論家時代の東京世界陸上で男子100メートル決勝後、カール・ルイスに観客席から「ヘイ、カール!」と絶叫し取材を試みる。

食べ物にまつわる証言

エピソード 内容
スイカの“先端だけ” 「三角に切ってあったスイカがウオーミングアップして帰ってくると先の部分だけみんななくなっていた」(槙原寛己氏)
どら焼き“はがし食い” 「どら焼きも半分にはがしてしまう」(槙原寛己氏)
バナナ“真ん中だけ” 「バナナを皮ごと半分に折って真ん中だけ食べる」(槙原寛己氏)
肉まん“中身だけ” 「横浜スタジアムで肉まんの中の肉だけ食べて、白いところは置いたのを見た」(岡崎郁氏)

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