【駒田徳広 我が道6】東海大か南海3位 2つの選択肢で待ったドラフト会議

[ 2026年5月6日 07:00 ]

エースで4番として奮闘したが、甲子園は遠かった
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 2度の満塁機で最初は押し出し四球、次はグランドスラム。それでも勝てなかった試合がある。桜井商3年生の1980年(昭55)5月、春の奈良県大会決勝、天理高校戦だ。

 ひどい雨の中で強行された一戦。初回1点を先制されながら、その裏すかさず逆転し、さらに2回だった。1死満塁で回ってきた打席で押し出し四球。これが「満塁で敬遠された」という伝説になるのだが、捕手は座っていた。

 マウンドがすっかりぬかるんできた後半、試合は動く。4―1の6回、連打と連続四球で1点を返され、なおも続く満塁。81年ドラフト4位で南海(現ソフトバンク)に入る2年生の4番打者、藤本博史に左翼席へ叩き込まれた。

 この回一挙6点で逆転され、さらに2点を追加されて4―9で迎えた8回。点差があったからか、今度は2死満塁で勝負してくれた。初球を右翼席へお返しの満塁弾。8―9と1点差に迫った。

 「さあ、行くぞ!」と盛り上がったが、9回の守りで2死二、三塁からボテボテの投ゴロに仕留めながら手が滑った。一塁へ悪送球。2者生還を許し、ぷつりと切れた。さらに失点を重ね、終わってみれば8―13。13与四球で自滅した。

 試合後、天理の清水貢(こう)監督が私に対する投球について「全部歩かせていいと言っているのに…」とコメントされた。さすが何度も甲子園に行っている私学の監督さんだ。マスコミが「満塁で敬遠」と話を大きく膨らませ、プロ入りの背中を押してくれた。

 甲子園最後のチャンス、夏の奈良大会は3回戦で智弁学園に4―8で敗れた。天理とはがっぷり四つに組めるようになっていたが、機動力で揺さぶってくる智弁には野球の質でかなわなかった。

 バント、盗塁、スクイズ。走ってくると分かっていても、クイックで投げられない。全て私のせいだった。

 初戦で天理にコールド負けした1年前は3年生より激しく泣いたのに、今度は涙が出なかった。新チームになって宿敵天理を破った2年の秋季大会準々決勝が全て。達成感に包まれた時点で、私の高校野球は終わっていたのかもしれない。

 卒業後については、東京六大学で野球をやりたいという気持ちもあったが、縁あって東海大学のセレクションを受けて合格。最終結論はドラフト終了まで待ってもらえることになった。

 プロは南海が熱心だった。スカウトの外山義明さんは、門田博光さんと一緒に天理からクラレ岡山に進み、69年ドラフト6位でアトムズ(現ヤクルト)に入団した左腕。「3位だったら絶対指名する」と話してくれていた。
 東海大か南海3位。2つの選択肢を頭に入れて、プロ野球ドラフト会議を待った。

 ◇駒田 徳広(こまだ・のりひろ)1962年(昭37)9月14日生まれ、奈良県三宅村(現三宅町)出身の63歳。桜井商から80年ドラフト2位で巨人入団。3年目の83年にプロ野球史上初となる初打席満塁本塁打の衝撃デビューを飾る。93年オフにFAで横浜(現DeNA)へ移籍。通算2006安打。満塁機は打率.332、200打点とよく打ち、満塁弾13本は歴代5位タイ。一塁手としてゴールデングラブ賞10回。 

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