【馬淵史郎 我が道2】エースの故障なければ勝負した 初めから全打席敬遠と決めたわけじゃない

[ 2026年3月2日 07:00 ]

大会注目スラッガーだった星稜・松井
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 1992年(平4)の夏の大会。抽選会は8月8日に行われた。明徳義塾が引き当てたのは第7日第3試合。相手は空白。しんがりの49番目。相手が未定のまま開会式を迎えるということになり、何か気持ちに引っかかるものがあった。

 決まったのは星稜と長岡向陵の勝者と戦うということだけ。「最悪のクジやな」と思ったね。こっちは初戦、相手は2試合目。どう考えても、試合を経験してきている方が有利。しかも星稜は松井秀喜が4番を打つ優勝候補。対戦が決まってもないのに「初戦から星稜ですね」などと取材をされた。とにかく時間はある。ええように考えて、試合に向けて準備するしかないと考えていた。

 松井はこの年の春の選抜でもずばぬけた存在になっていた。ラッキーゾーンが撤去されたばかりの甲子園で3試合3本塁打。夏もNo・1のスラッガーだ。長岡向陵戦も甲子園で視察した。星稜は11―0で完勝。松井も5回に右中間へ2点三塁打を打った。打球の速さが全く違っていた。インパクトがあった。

 試合翌日も星稜の状態を見極めるために、神戸製鋼のグラウンドで行われた練習をチェックした。ここは社会人の阿部企業時代によく使っていた場所だったから、打球を見たら、甲子園のどのあたりに飛んでいくかは想像がついた。星稜の中でも松井だけが違って見えた。当時は1メートル85、85キロだが、サイズ以上の威圧感があって、オーラがあった。

 加えて星稜で目を引いたのは投手の山口哲治くんの投球だった。エース左腕も簡単に打ち崩すことはできない。競り合いしか勝ち目はない。どうすれば、こちらの流れになるか。対戦まで、そのことをずっと考えていた。

 そして明徳義塾には互角に勝負できる投手はいなかった。背番号1の岡村憲二は大会前に肘を痛めて、登板は無理だった。甲子園のベンチには投手を5人も入れた。背番号8の河野和洋のコントロールで何とか打ち取るしかない状況だった。松井と勝負するにはインコースを攻めるしかないが、MAX130キロの河野ではタイミングを外しても、スタンドに運ばれる。だって、高校を出て、すぐに巨人のクリーンアップを打つことになる選手だ。そんな高校生10年に一人もおらん。勝負に「たら」「れば」はないが、岡村の故障がなかったら勝負はしていたと思う。

 ビデオを何度も何度も見た。松井以降の打者となら河野も勝負はできる。そこで勝機をつかむしかないと腹を決めた。接戦になったらヒットを打たれたと思って歩かせ、後続を打ち取るしかない。対戦前日の取材では「勝負となったら松井くんを敬遠するかもしれない」と作戦を明かしていた。点差が開く展開になっていたら、もちろん勝負していた。初めから全打席敬遠と決めたわけじゃなかった。

 ◇馬淵 史郎(まぶち・しろう)1955年(昭30)11月28日生まれ、愛媛県八幡浜市出身の70歳。三瓶高―拓大。83年に社会人の阿部企業で監督に就任、86年に都市対抗初出場、日本選手権で準優勝。90年から明徳義塾の監督に就任、02年夏の甲子園で優勝。監督として甲子園通算39回出場(春17回、夏22回)は歴代1位。甲子園55勝は歴代4位。23年には日本代表監督としてU―18W杯優勝を果たした。

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