【阪神V目前企画 あの感動を再び】G倒でリーグ優勝決めた2005年 再び岡田彰布監督が舞う日は目前に

[ 2023年9月13日 16:40 ]

2005年、2年ぶりのリーグ制覇で胴上げされる岡田彰布監督
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 最高の瞬間が訪れた。05年9月29日の甲子園で岡田彰布監督が率いる阪神が2年ぶりのリーグ優勝を決めた。相手は宿敵・巨人。本拠地で巨人に勝って、目の前で胴上げを見せつける。ここまで積み重ねてきた負の歴史があった。屈辱だったのは73年10月22日の甲子園。シーズン最終戦で阪神と巨人、勝った方が優勝という最終決戦で、猛虎は0―9で散った。巨人がV9の金字塔を達成したシーズンだった。甲子園は怒号が支配し、ファンはグラウンドに乱入した。しかし、05年は立場が逆になった。

 5―1。堂々の勝利で岡田監督が宙に舞った。「最高の舞台で、宿敵・巨人の前で胴上げができて最高です。最高の終わり方や。本当に強いチームになった。最高の選手に恵まれ、最高の一年になりました」。5度の胴上げの後、指揮官は声を震わせ、インタビューに応じた。目は赤く潤んでいた。

 G倒でリーグ優勝を決めたのは2リーグ制以降で初めて。1リーグ時代の37年秋以来の甲子園でのG倒優勝決定。実に68年ぶりの快挙だった。幾度となく辛酸を味わわされた相手を倒して、頂点に立つ。チームにとっても、ファンにとっても夢の瞬間だった。

 岡田監督の胸に去来したのは、大エースでミスタータイガースと呼ばれた村山実の姿だった。岡田監督の父・勇郎さんと親交があり、大阪・玉造の実家には、村山もたびたび訪れていた。だから初めて付けた背番号は11。村山の引退試合の日には甲子園でキャッチボールの相手を務めた経験もある。天覧試合で長嶋茂雄に浴びたサヨナラ本塁打の屈辱を生涯忘れず、打倒・巨人に右腕をふるったエースが愛した言葉が「道一筋」。同じ思いで、岡田監督もこれを座右の銘としていた。胴上げの日は、阪神と自分をつないでくれた勇郎さんの誕生日でもあった。ベンチに置かれた父の遺影も、胴上げをしっかりと見届けていた。

 運命の巨人戦、先発は下柳剛。6回を4安打無失点に抑え「良かった。勝てて良かった。それだけ。きょうは飲むぞ」と14勝目に笑顔を見せると、初回には金本知憲が先制打。2回には関本健太郎の適時打などで2点を加えると、7回には桧山進次郎、矢野輝弘の連続適時打でダメ押しした。そして大歓声とともに甲子園のボルテージを高めたのがJFKの登場だった。

 7回に藤川球児がマウンドに立つと、無数のフラッシュがスタンドから放たれた。稲尾和久が持つ日本記録シーズン78試合登板に前日の巨人戦で並び「涙の準備はできてます。みなさんも準備はよろしいですか」とお立ち台で呼びかけていた。胴上げがかかった試合で79試合登板の日本新記録を達成。プロ7年目。前回優勝の03年も戦力になっていなかった藤川が、岡田監督の起用に応えて大ブレーク。05年の快進撃は炎の投球とともにあった。

 ファンも優勝の立役者だと知るからこそ、1球1球に歓声を送った。簡単に2死を取ると、最後は村田真一から空振り三振。11球で巨人を封じこめた。「フラッシュは気になったけど、大丈夫でした。きょうは泣くまいと思っていたけど、やっぱり我慢できなくなった」と藤川が顔を紅潮させると、8回はウィリアムス、そして9回は久保田智之で胴上げへのバトンをつないだ。9回2死、阿部慎之助の打球は金本のグラブに収まった。「狙い通りだよ。めったにない経験だから、ラッキー」と鉄人はウイニングボールを握りしめながら、歓喜の輪に加わった。

 阪神球団創設70周年を飾る優勝だった。初めて誕生したおひざ元の大阪出身の監督が栄光を導いた。03年に優勝を果たした星野仙一前監督からのバトンを受けての采配。1年目は4位に終わった。何かにつけて、SDとして球団幹部に残った前任者と比較をされる。やりにくさは感じていたはずだが、岡田監督は「道一筋」を貫いた。星野野球はほとばしる情熱で選手に刺激を与え続けたが、自分は選手に応じた役割を与え、その責任を個々が全うすることが勝利への近道と信じて取り組んだ。4月1日、開幕戦前のミーティングでは「自分たちの力を信じたら、大丈夫や」と語りかけ、9月14日に優勝マジックが点灯してからも「開幕からの野球を最後までやり続けるだけ」と揺らぐことはなかった。

 おおらかなイメージを持つ岡田監督だが、北陽―早大―阪神と歩む野球人生で磨いた独自の理論を持ち、数字にも抜群に強い一面を持つ。「03年以上にチームを強くしなければいけない。そのためにも、勝つパターンを確立しなければいけない」と考え、作り上げたのがJFKだった。

 03年からウィリアムスと久保田は戦力となっていたが、藤川は伸び悩み、1軍と2軍を行ったり来たりの存在。4年間、2軍監督として若手を鍛えてきた岡田監督も「長いイニングだと、途中でつかまる。ただ、球には力がある。短いイニングなら上でも通用する」と藤川を見ていた。03年オフ、次期監督就任が決まった指揮官は、球団フロントがまとめた放出要員リストに藤川の名前を確認した。複数球団からトレードの打診があったのだ。「きっと使える投手になる」と監督権限で外したことが、藤川のブレークにつながった。

 球に力がある順に抑え、それから中継ぎと決めていくのが一般的だが、岡田監督の発想は逆だった。「野球で何でラッキーセブンと言われるかを考えると、7回に試合が動くことが多いからや。先発が下がって、投手のレベルが落ちるところで、攻撃は代打も含めて仕掛けてくる。だから7回に力のある投手で行くんや」と藤川―ウィリアムス―久保田の並びにこだわった。

 清原伝説もここに加わった。4月21日の巨人戦でフォークに空振り三振に倒れた清原和博が「チン○コついとんのか」と直球勝負をしてこなかったことに怒りの発言をしたことが、藤川の名前を逆に広めた。「あの言葉が励みになった。まっすぐにこだわり、まっすぐで勝負できる投手を目指すきっかけになった」と藤川は炎のストレートを誕生させた。

 ペナントレースのヤマ場でもJFKが存在感を発揮した。首位攻防の相手は落合博満監督が率いる中日。2ゲーム差に追い上げられたところでの9月7日、ナゴヤドームでの対戦は終盤に荒れた。1点リードで迎えた9回2死満塁で関本が右前打。三塁走者に続き、二塁から中村豊が本塁を狙ったが、微妙なタイミングで判定はアウト。これが伏線となった。その裏、中日の無死二、三塁からの本塁クロスプレーが判定はセーフ。岡田監督とともに抗議した平田勝男ヘッドが退場処分。試合は18分にわたって中断した。なおも同点で1死満塁。マウンドの久保田に、岡田監督はこう言った。「打たれろ。負けてもお前の責任違う。責任はオレが取る。むちゃくちゃ行ったれ」。久保田が連続三振でピンチを脱出し、試合は延長11回、中村豊の本塁打で決着。負けられない一戦を制した。

 監督就任後、初めて歩を進めたマウンドで飛ばしたゲキが、死闘をモノにし、優勝へのスパートをかける合図となった。落合監督の「監督で負けた。以上」の試合後のコメントが、阪神の勝利への執念を認めていた。05年のMVPは金本、下柳は最多勝、藤川は最優秀中継ぎ、今岡誠が打点王、赤星憲広が5年連続の盗塁王に輝き、ベストナインには矢野、今岡、金本、赤星が選ばれた。個々の力がひとつになって、勝ち取ったペナントだった。

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