【芸人イチオシ】古坂大魔王 芸人人生の原点となったプロレスマスク「いっぱい集めてやる!」

[ 2023年3月14日 08:30 ]

お気に入りのプロレスマスクを披露する古坂大魔王(撮影・郡司 修)
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 変幻自在のマシンガントークで幅広く活躍する古坂大魔王(49)。今の地位を築き上げるに至った原動力は、年収9000円の新人時代に手放した1枚のプロレスマスクだった。

 初代タイガーマスクにビッグバン・ベイダーのマスク。自宅から持参し、机の上に並べた数種類の逸品を前にうっとりとする。だからこそ“あの日”の悔しさが忘れられない。

 「絶対金持ちになって、大好きなマスクをいっぱい集めてやる!そう心に誓いました」。

 初代タイガーに憧れ、小さい時からプロレス少年。小6で初めて手に入れたスーパー・ストロング・マシン(SSマシン)のマスクを、芸人を夢見て上京した18歳の時に3万5000円で売った。月1万円の部屋の家賃すらも1年間滞納する生活苦の中で、断腸の思いでの選択だった。

 「お年玉、誕生日、クリスマスプレゼントを2年間我慢して、母に買ってもらったもの。それ以外にも過去の週刊プロレスのプロレスアルバムも全部売って10万円に。生きる上で救われましたが、自分の全てを手放したような気持ちになりました」。

 力道山ファンの父の影響で、3歳上の兄とともにプロレスに熱中した。小6で100キロの体格があり、あの“燃える闘魂”アントニオ猪木さんに弟子入り志願。背中を引っ叩かれて「痛いか」と聞かれ「い、痛いです…」と答えたところ「じゃあ、やめろ」と断られた逸話を持つ。それほどセルリアンブルーのマットに憧れた。

 試合を追う中でマスクマンよりも、いつしかマスクの素材そのものにも興味を示すようになっていった。地元のショップに通い詰め、飾られた商品に羨望の眼差しを送る日々だった。

 初めて手にしたSSマシンのマスクは「女の子の頭かと思うくらい、かなりの小顔で驚いた。素材もメッシュだと知り興奮した」と振り返る。念願だった自分だけのプロレスマスク。うれしさのあまり上半身裸にマスク姿で、冬の青森を駆け回った。通っていた小学校の校庭に向かい、お立ち台の上でポーズ。街灯をスポットライト代わりに、謎の怪覆面になりきった。

 プロレスと同時並行でお笑いも大好きな少年期。ドリフターズ、とんねるずら何でもありな笑いにのめり込んだ。奇想天外な笑いのセンスはテレビ、そして年1回街に来る寄席の漫才コーナーで吸収。元々お調子者な性格で、小6の時には地元のラジオ番組に「小学生芸人」として出演するなど、青森では知られる存在だった。

 期待を胸に東京に進出し、92年にお笑いトリオ「底ぬけAIR―LINE」を結成。伝説のバラエティ番組「ボキャブラ天国」への出演を果たすものの、鳴かず飛ばず。一方同期の「くりぃむしちゅー」らは、どんどん人気に。一発逆転をかけて03年にはテクノユニット「NO BOTTOM!」として活動も、不発に終わった。

 この原因を、古坂は「あまのじゃく過ぎた」と分析する。「人が何もやっていないことに挑戦すれば成功するとずっと思っていた」。周囲からは迷走を心配されながら、ドンドン新たなことに挑戦。そんな最中、プロデュースを手掛けた「ピコ太郎」の「PPAP」が爆発的ヒットを記録した。

 「ピコ太郎さんのおかげで、家にはプロレスマスク部屋ができた。今や50種類はあるマスクを、ボーッと眺めるのが至福の時」“あの日”の悔しさをバネにした日々を、笑いの神様は見守っていたようだ。

 ピコ太郎のプロデューサーとして売れまくり「欲しいものは何でも買える」と思っていた矢先、どうしても手に届かない代物があった。それが“虎ハンター”小林邦昭に破かれた初代タイガーの本物のマスク。ファンにとっては垂涎もののお宝だが、値段は350万円。即決で決められず、購入を断念。「まさかまだ買えないものがあるなんて。しかも次の日にすぐ売れたので、“上には上がいる”と思いました」。

 マスク部屋には初代タイガーの1981年4月23日、蔵前国技館でのダイナマイト・キッド戦のレプリカから、伝説のマスク職人アントニオ・マルティネス製のウルトラマンの本物マスクまで置いてある。それでもまだ足りない。

 猪木さんの名言ではないが、マスクがあれば何でもできる。「最初から集められないこと考えるバカ、いるかよ!」の精神で部屋を札止め超満員にしたい。校庭のお立ち台で歓声まで聞こえたであろう少年マスクマンの野望はまだまだ続く。

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