「全部くれた人」円楽さん通夜に涙の楽太郎

[ 2009年11月5日 06:00 ]

亡き師匠の思い出を語り涙ぐむ三遊亭楽太郎

 肺がんのため10月29日に76歳で亡くなった落語家の五代目三遊亭円楽(本名吉河寛海=よしかわ・ひろうみ)さんの通夜が4日、東京・渋谷区の代々幡斎場で営まれた。悲報に接しながら福岡、広島で悲しみをこらえて公演を務め上げた愛弟子の三遊亭楽太郎(59)は前夜遅く帰京し、亡き師匠と対面。「まだまだ教わることがあったし、小言を言われなくなるのが悲しいよ」と涙で語った。

 遺族の意向で内々で営まれた通夜だったが、故人の交友の広さを物語るように約200人が参列。桂歌丸(73)はじめ三遊亭小遊三(62)、林家たい平(44)ら日本テレビ「笑点」のメンバーや春風亭小朝(54)ら落語家仲間も仕事の合間を縫って弔問した。
 菊やコチョウランなど白い花で高座風に飾られた祭壇。遺影は還暦を迎えた時に東京・千代田区の国立演芸場で「芝浜」を熱演するモノクロ写真。喪主の和子夫人(76)によると、同演芸場のカレンダーにも使われた本人お気に入りの一枚だ。
 最後(27番目)の弟子で10月に真打ちに昇進したばかりの王楽(31)らが弔問客の対応に当たったが、その中に楽太郎の姿があった。円楽さんが死去した翌日の先月30日に自らプロデュースした「博多・天神落語まつり」が開幕。悲報に「断腸の思い」とコメントを出しながら帰京せずに公演をこなした。3日には広島でも高座を務め、その足で戻り、悲しみの対面を果たした。
 紋付きはかま姿で「師匠が亡くなったのは自分がプロデュースした会が始まる前日。命懸けで宣伝してくれた」と涙。六代目円楽の襲名も来年3月に迫ったが「“楽太、おまえが私の名前を継げ”と言われた時は“僕でいいんですか”と重荷にも感じましたが、同時にうれしかった。襲名披露には車椅子でもいいから姿を見せてほしいとお願いしたら“さあな、どうだろうな。頑張ってみる”と…」と悔しさをにじませた。そして「30年以上も前に自分は親を亡くしたけれど、(師匠は)芸の親であり、実の親以上に小言も言ってくれた。27歳だったガキの僕に“笑点”の席を譲ってくれて、“とにかく落語会をやれ、稽古をやれ”と。鬼の円楽と仏の円楽がいましたが、僕には全部くれた人でした」と感謝の言葉を並べた。
 棺には、大好きだったメジャーリーグ関連の本と愛用の高座着が納められた。法名は「光岳院情誉円楽寛海居士(こうがくいんじょうよえんらくかんかいこじ)」。葬儀・告別式は5日午前11時から同所で営まれる。

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2009年11月5日のニュース