【阪神V目前企画 あの感動を再び】合言葉は「勝ちたいんや」 星野仙一監督の手で頂点に立った2003年

[ 2023年9月13日 16:30 ]

2003年、18年ぶりの優勝を決め、胴上げされる星野仙一監督
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 「勝ちたいんや」―。闘将・星野仙一はこの言葉を訴え続けた。指揮官はどんなときでも強い思いを持ち、前に進もうとした。繰り返すことで、思いは選手に移り、ファンにも伝わった。勝ちたい。勝てる。ダメ虎を長い眠りから目覚めさせる化学反応が、星野監督の言葉から始まった。

 実に18年ぶりの歓喜の瞬間が訪れたのは03年9月15日の甲子園だ。デーゲームの広島戦。1点ビハインドの8回無死、途中出場の片岡篤史が「香車なら香車らしく、ド香車で行ってやろう」と直球1本に狙いを絞り、147キロを浜風を切り裂く右中間への同点弾。午前8時開門の甲子園5万3000観衆がXデーの予感に震えた。

 2―2の同点で迎えた9回1死満塁。最高のチャンスが2番に入った赤星憲広の打席に回ってきた。星野監督が耳元でささやいた。「外野も内野もみんな前に来とるやないか。普通に打てば、頭を越える。思い切って振ってこい」。迷いは消えた。当てに行くのではなく、しっかりと振るだけ。初球のカーブをバットがとらえ、指揮官の言葉通り、右翼を越えた。劇的なサヨナラ勝利。赤星の体は星野監督に抱きかかえられた。「外野に飛べば1点入ると思っていた。飛んだ瞬間はすごくうれしかった。こんな日に打てて、最高です」と言葉は震えた。

 試合後、首脳陣、全選手はそのまま甲子園で、マジック対象のヤクルトの試合終了を待った。サヨナラ勝利でマジックは「1」。スタンドのファンも誰1人帰ることなく、胴上げを信じて待ち続けた。祈りは通じた。2時間8分後、ヤクルトの敗戦と同時に矢野輝弘、金本知憲らがベンチを飛び出した。胴上げだ。星野監督が大きく両手を広げ、甲子園に舞う。1度、2度…計7度。苦しい日々を乗り越えた分、喜びは格別だった。

 第1声は「あー、しんどかった」。偽りのない星野監督の優勝監督インタビューに拍手が起こる。「みなさん、良かったね。選手も18年間という苦しい時代を乗り越えて、こうしてみなさんの前で夢に日付けを書くことができました。寒い日から、この暑い甲子園でも必死に戦って、ファンのために18年ぶりの夢をかなえた選手に、もう一度拍手をしてやってください。甲子園で、このタテジマで、みんなの前で胴上げしたかった。ありがとう。本当にありがとう。ありがとう」。数え切れないほどのジェット風船が、闘将の言葉とともに、甲子園をいろどっていた。

 長い長いシーズンだった。敵地・横浜での開幕戦を井川慶で落とし、2戦目を伊良部秀輝が7回途中3失点で日本復帰初勝利。チームはここから立て直し、開幕4カード12試合を7勝5敗でスタートした。そして13試合目、4月11日の敵地での巨人戦。この試合が、ひとつの転機になった。

 03年初めての伝統の一戦は激しい攻防が繰り広げられた。阪神は8回1死二塁から「完ぺき?そうやね。うまいこと反応ができた」と金本の移籍1号2ランが飛び出し、4―1とリード。優位に立っていた。さらに9回にはアリアス、片岡にも本塁打が出て、7―1で9回裏を迎えていた。だが、巨人も粘る。ポート、吉野誠に打線が襲いかかり、4点差で仁志敏久にカウント0―2と追い込んだところで、星野監督は藤川球児を投入した。

 絶対的守護神となるのは05年。まだブレーク前の右腕だった。これが裏目となった。仁志の中前適時打で3点差の2死一、三塁から後藤孝志が同点3ラン。まさかの展開だった。阪神は延長12回にアリアスの左犠飛で勝ち越すが、その裏に高橋由伸が再び同点弾。ほぼ手中にしていた白星は消え、8―8の激戦ドローの結果に終わった。

 星野監督が怒りを爆発させるに違いない。首脳陣も選手もそう思った。あれだけ「勝ちたいんや」と言い続けた指揮官だ。圧倒的リードでも試合をモノにできなかったことに、厳しい態度を取るはず、と宿舎に戻り、全体ミーティングの招集が伝えられると、選手たちはカミナリが落ちることを覚悟していた。

 だが、選手を前にした星野監督は冷静だった。「きょうはオレのミスや。すまんかった。野球は怖いな」とだけ言うと、頭を下げた。就任2年目、初めて見せる姿だった。「よう負けなかった。みんな、よう頑張った。点を取るときには必ず取る。1点でも多く確実に取る。それが選手にも分かったはず」と後日、担当記者にもポイントの試合として、この巨人戦を挙げた。勝てなかった。だが、負けなかった。弱い時代の阪神なら負けていた。今年は違う。やってくれる。星野監督が虎の底力を再確認した試合だった。

 翌日の巨人戦で、勝てなかった悔しさを選手は試合にぶつけた。3回に打者13人の猛攻を見せ、8安打を集中し、1イニング大量8点で大勝。「選手がよく切り替えてくれた。これまでならズルズルと行っていた。彼らの成長でしょう。選手がオレのミスを救ってくれるときもあれば、逆もある。それが信頼関係や」と勝利に向けた絆を強調した。

 阪神はここから勢いづいた。5月9日の横浜戦(横浜)では3回に4番・浜中おさむ、5番・片岡、6番・アリアスが3者連続本塁打。85年のバックスクリーン3連発を思い起こさせるインパクトを与えた。「いつまでも85年じゃない。新しいタイガースに変わったんや」と、ここでも星野節は絶好調。7月2日の中日戦(甲子園)ではベテラン桧山進次郎がサイクル安打をマークし、貯金を30の大台に乗せると、同8日の広島戦(倉敷)でマジック49を点灯させた。

 就任1年目は66勝70敗4分けで4位に沈んだ。前任の野村克也監督でも果たせなかった猛虎改革の前途は難しいと誰もが感じたが、星野監督はこのオフ、激しく動いた。本社、球団を説得し、補強資金を確保すると、実に20人を超す大量リストラに踏み切った。投手陣では伊良部、そして下柳剛を獲得。さらにFAで広島の主砲・金本を獲得した。直接、何度も「一緒にやろう」と説得するとともに、巧みに外堀も埋め、断り続けた鉄人をとうとう振り向かせた。勝つためには、打線の軸が必要だと判断し、それを実現する。星野監督は本気だった。

 その強い思いは肉体には負担となった。独走状態で、マジックは着々と減っていっても「これで大丈夫なのか」「これで優勝できんかったらどうなる」と食欲不振、不眠症や高血圧に襲われ、星野監督の主治医も常に付き添っていなければならなかった。一方で胴上げの裏には悲しみもあった。女手ひとつで寮母をしながら、闘将を育てた母・敏子さんが阪神での胴上げを見ぬまま、優勝決定の2日前に他界していた。

 星野監督は翌14日に最後のお別れをし、胴上げ当日の15日の葬儀には参加しなかった。「優勝を見せてあげたかった」。すべてが凝縮された阪神監督としての2年間。優勝でチームや選手、ファンへの責任は果たしたと、胴上げの中で決意をしていた。ダイエーとの日本シリーズ後に、指揮官は正式に勇退を表明することになる。

 優勝パレードは11月3日に行われた。強い雨が降った日だった。それでも大阪・御堂筋は40万人の人出で埋まり、神戸のパレードにも25万人が押し寄せた。「雨の中でどのくらい待ってくれたのか。頭が下がります」と目を細めた星野監督。パレードで背番号77の姿を認めると、ファンは傘を閉じた。指揮官とともに濡れながら、勝利への感謝を伝えていた。

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