【内田雅也の追球】バットは体の一部――素手か手袋かの論議

[ 2020年2月4日 06:30 ]

素手で打撃練習をするボーア(撮影・大森 寛明)
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 かつて「バット作りの名人」と呼ばれた久保田五十一(ミズノテクニクス)が引退する2014年1月に聞いた、有名な逸話がある。

 三冠王3度の天才打者・落合博満が巨人時代の1995年オフ、バットを2本手にして工場にやって来た。1本はグリップが細いという。自分が削ったバットでそんなはずはないとノギスで測ると、本当に0・2ミリ細かった。

 久保田は当時52歳だった。肉眼での衰えを認識し、後に老眼鏡を使うようになった。いや、それ以前に一流打者の感覚の鋭さに恐れ入った。落合は「素手で握っているから、微妙な感覚の違いが分かるんだ」と話していたそうだ。

 素手の皮膚感覚は大切なのだろう。そう言えば、ON(王貞治、長嶋茂雄)も掛布雅之も素手だった。

 なぜ、こんな話をするのか。阪神新外国人ジャスティン・ボーアが素手で打っている。バッティング・グラブ(打撃用手袋)をはめる打者が大半のなか、話題を呼んでいるからだ。ボーアは「これまでも素手で打ってきたし、その感覚を大切にしたい」と話している。

 オリックスの大物新外国人アダム・ジョーンズも素手で打っているらしい。

 確かに、打撃で感覚は重要な要素だ。バットという道具を使うから余計だろう。

 大毎(現ロッテ)、阪急(現オリックス)、近鉄を優勝に導いた名将・西本幸雄は打撃指導に熱心だった。思い出す光景がある。阪急時代の教え子、石井晶が阪神1軍打撃コーチに就いた1989年1月、当時あった合同自主トレ初日の朝、選手たちに顔を合わせる前に、甲子園球場三塁側室内で“打撃指導の指導”を行っていたのだ。

 「ええか。選手には、バットの先端にまで神経を集中させろ。バットも手と同じ感覚になるようにせんとあかんぞ」

 2軍打撃コーチから昇格して1軍打撃コーチとなる石井の指導法が心配だったのだ。

 この時、西本が説いた「バットも手と同じ感覚」が肝要なのだろう。バットも体の一部として、痛点や温点、冷点がある感覚になるべきなのだ。

 1910年代の大リーグで活躍した伝説の打者“シューレス”ジョー・ジャクソン(ホワイトソックス)はオフになるとシカゴから、故郷の南部サウスカロライナにバットを持ち帰った。「野球をわかっている人なら、バットと打者とは似た者同士なのをよく知っている。バットも寒さを嫌うんだ」。彼は、バットの寒さも痛さもわかっていたのだろう。

 仏リヨン第1大学の博士ルーク・ミラーらが学術雑誌『ネイチャー』に発表した論文で<人間の脳は手に持った道具に伝わる感触を自身の感触と同様に認識している>と発表している。昨年12月のことだ。

 実験は目隠しした被験者に1メートルの木の棒を持たせ、2度、棒に触れた位置が同じかどうかを比較させた。すると平均96・4%の精度で位置を正しく感知した。「道具は体の延長として扱われる」と結論づけた。

 まるでバットでボールを打つ実験である。古代エジプトの王がバットのような棒きれで玉(ボール)を打つ壁画もある。“打つ”という行為は、人間の本能と直結しているようだ。

 “打つ”ときには、恐らく、手袋の有無も関係ないだろう。要はバットを体の一部にできるかの勝負である。
      =敬称略=
     (編集委員)

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