内田雅也が行く 猛虎の地(9)打点王育てた軟式野球の公園

[ 2019年12月10日 08:00 ]

1954年、打点王となった渡辺博之=『タイガース30年史』=
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 【(9)天王寺公園】

 終戦翌年1946(昭和21)年に始まった天皇賜杯全日本軟式野球大会(後にスポニチ本紙主催)の第4回大阪大会の優勝は水山ベルトという。49年6月13日付本紙に<優勝戦 水山ベルト12―0大福製作所>と成績が載っている。会場は天王寺公園球場である。

 この優勝投手で主力打者が渡辺博之だった。元本紙記者の神門晴之が『ふる里の野球』(ジェーピー出版社)で<廃虚のなかで、ときおり天王寺公園の草野球を楽しむしかなかった>と書いている。戦後、外地から復員し、御堂筋に洋品雑貨店を構えた。経営が忙しかった。ただ、実力は相当で、社会人・全大阪にも加わり、都市対抗にも46~48年と出場している。

 21(大正10)年元日生まれ。大阪市阿倍野区松崎町で育った。天王寺公園は天王寺第五小時代からの遊び場だった。旧制桃山中(現桃山学院)では剛球豪打で浪華商(現大体大浪商)や明星商(現明星)など強豪と互角の勝負を演じた。甲子園出場経験はない。

 慶大の誘いを蹴り、同大に進んだ。『同志社大野球部部史』には<京都のおっとりした風情にひかれ>とある。1年春から今で言う投打二刀流。41(昭和16)年には関西六大学リーグ初優勝の立役者となった。捕手・徳網茂(後に阪神)との名コンビだった。

 在学中の42年、阿倍野女学校(現阿倍野)生だった嘉子と学生結婚。2年後輩の蔦文也が徳島・池田監督時代、「人もうらやむ大恋愛だった」と語っていた。

 さて、軟式で全国大会に出た渡辺に阪神が声をかけた。関大OBで旧知の森田忠勇が2軍監督に就き、勧誘した。契約は49年12月24日。球団に「契約金は預けておきます」と申し出たと球団発行『阪神タイガース 昭和のあゆみ』にある。

 年が明ければ29歳。30歳で大ベテランだった当時、相当に年季の入った新人で、家族の猛反対もあった。「好きなチームで飯より好きな野球がやりたい」と説得してのプロ入りだった。

 2リーグ分立で別当薫ら主力打者が多く毎日へ移った後、渡辺は奮闘した。4番・藤村富美男の前(3番)か後ろ(5番)を打った。54年には打点王に輝いた。

 引退後は母校・同大の講師から工学部教授となった。61年に監督に就任し、78年秋の明治神宮大会で優勝。同大初の日本一を置き土産に退いた。渡辺から「おまえに譲る」と後任監督の指名を受けた漆崎(旧姓安藤)亘(83)は「豪快で優しく、奥さまは活発な女性でした」と懐かしむ。

 渡辺が戦後、軟球をかっ飛ばした天王寺公園は4年前、天然芝が広がる「てんしば」として生まれ変わった。近くにあべのハルカスがそびえ立っている。=敬称略=(編集委員)

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