焦土からの1球――戦後復活大会での京都二中

[ 2018年6月20日 10:30 ]

1946年夏、京都二中が全国大会で巻いていた石清水八幡宮のはちまきを手にする黒田脩さん
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 【内田雅也の広角追球・高校野球100回大会余話】開会式が終わると、京都二中(現・鳥羽高)の黒田脩(88=西宮市)は監督の田丸道蔵から声がかかった。

 「クロ、1番で行くえっ!」

 終戦からちょうど1年後の1946(昭和21)年8月15日の朝である。第28回全国中等野球優勝野球大会(今の全国高校野球選手権大会)開幕、中等野球復活の日だった。甲子園球場は接収されており、西宮球場での代替開催だった。

 京都二中は開幕試合で成田中(南関東・千葉=現成田高)と対戦する。主将でエース、監督と父子出場の田丸道夫がじゃんけんで負け、先攻と決まった。その先発メンバー発表である。

 さすがに驚いた。京都大会、滋賀との京津大会と予選での打順は8、7、2、5番。1番は陸上部兼任で俊足の竹中利夫か塩見正が務めていた。内心「そんなムチャやで」と思った。「後で監督は“クロは動じない度胸があり、運もいい”と話していたそうだ。僕の邪念のない性格にかけてくれたのかもしれない」

 午前9時44分、プレーボール。戦後初の打席の第1球は「それがよく覚えていないんや」。直前に行われた始球式(投手役は大会委員長・西村道太郎)では「空振りするように指示があった」と覚えている。だが、本番で成田中の投手・石原照夫(立教大―東映―ロッテ球団代表)の球は「おそらく真ん中の直球だったと思うが、緊張で手が出なかった」。

 1度もバットを振らなかったが、この1回表の打席はフルカウントから四球を選んで出塁している。戦時中最後の「幻の甲子園」、1942(昭和17)年、文部省主催の大会は決勝で平安中(現龍谷大平安高)の投手・富樫淳(法政大―阪神)が押し出し四球を与え、徳島商がサヨナラ勝ちで優勝している。黒田は「中等野球は四球で終わり、四球で始まった」と巡り合わせを思う。

 スタンドは超満員だった。戦争で途絶えていた中等野球の復活は、焦土から立ち上がる人びとの希望でもあった。黒田は「西宮北口駅から球場までの道中、傷痍(しょうい)軍人の姿が目立った」と記憶している。

 食糧の物資も不足していた。全国大会出場を決めた時、先輩が奮発してくれた京都・祇園のホテル屋上でのすき焼きが忘れられない。普段は代用食のイモや黒パンでしのいでいた。「すき焼きのためにがんばったようなもんだったなあ」

 大会期間中、出場19校の宿舎は阪急・仁川にあった関西学院の寮があてられた。戦中は予科練の宿舎だった施設をベニヤ板で仕切って使った。1校あたり8畳ほどだった。あまりの環境に数校は旅館や寺、会社の寮などに宿舎を変更した。

 京都二中はそのまま宿泊した。彦根で買い求めた闇米を選手がさらしに巻いて運んだ。各校が持ち寄った米を分け合った。敗れたチームは勝ち残ったチームのために、米を残していった。

 捕手のレガースがないチームも多かった。京都二中の捕手、金森正夫(87=京都市下京区)は竹と布で編んだ特製レガースだった。「四条通の古道具店で見つけたんだ」と懐かしむ。「スパイクも後援会の先輩に買ってもらったんだ。ウサギの革でできた白い靴だったなあ」。野球道具があまりにうれしくて、買ったスパイクをそのまま履いて、河原町の繁華街を歩いて回ったそうだ。

 京都二中は1915(大正4)年の第1回大会優勝の伝統を誇る。戦時中中、ボール12ダースほどを大切に保管していた。終戦の1945(昭和20)年10月1日、戦前からの部員で残る田丸、塩見らから野球部復活を懇願された野球部長・石川平太郎は先輩で、全国大会創設の発案者の1人でもある高山義三(後に京都市長)に相談した。「大賛成」と激励を受けた。

 「10月中秋、久しぶりに校庭において白球を打つ。快し」と、その喜びを『京二中野球部記』に記している。

 こうして復活した京都二中は開幕試合を1―0で制した。第1回大会同様、武神と信仰される石清水八幡宮のハチマキを巻いて勝ち進んだ。

      =敬称略=

  ◇  ◇  ◇

 今回からは戦後、中等野球(今の高校野球)が復活した1946(昭和21)年を中心に歴史をたどっていく。

     (編集委員)



 ◆内田 雅也(うちた・まさや) 1963年2月、和歌山市生まれ。桐蔭高(旧制和歌山中)―慶大。和中・桐蔭野球部OB会関西支部長を務める。大阪本社発行紙面で主に阪神タイガースを追うコラム『内田雅也の追球』を掲載12年目に入っている。 

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